下落合の北西側、妙正寺川の上流域で中野区の北部にあたる江古田(えごた)地域には、天狗や般若(鬼女)の伝説が語り継がれている。このエリアは、ちょうど中野区と練馬区、板橋区、豊島区の区境に近く、江古田(村)あるいは中新井(村)という地名は中野区側にあり、西武池袋線の江古田(えこだ)駅は練馬区旭町にあり、古墳をベースに築造された駅前にある浅間社の江古田富士Click!も同じく練馬区にあるが、古墳時代の住居跡など直近の遺跡は、現在まで確認できている限り中野区側と豊島区側、そして板橋区側にまたがって発掘されているという入り組んだエリアだ。
 古墳時代の遺跡としては、練馬区に属する江古田駅前の浅間社境内にされていた江古田富士塚古墳(前方後円墳?)を除けば、駅南側の中野区にあたる「中野No.36」遺跡と「南於林遺跡」、江古田駅の東側にあたる豊島区の「千早遺跡」、同じく東側の板橋区に属する「板橋区No.126遺跡」の4ヶ所を数えるが、区が異なる「千早遺跡」と「板橋区No.126遺跡」は区境の道1本はさんで同じエリアの遺跡なので、もともとは同一の集落だったのだろう。
 これだけ、古墳時代の遺跡が散在する江古田駅周辺だが、古墳に比定されているものは江古田富士塚のみで、ほかには現存しないことになっている。そのような環境を前提に、おそらく江戸期より伝承された天狗や般若(鬼女)などの昔話をみると、興味深いことがわかる。たとえば、天狗の伝説を引用してみよう。参照するのは、こちらでも何度か怪談や奇譚などで引用している、1997年(平成9)に中野区教育委員会から出版された『続中野の昔話・伝説・世間話』で、中野区側の江古田に住む明治生まれの古老の証言だ。
  
 真ん中の茶室と八畳と六畳なんです。その大きいほうの部屋じゃないかと思うんですけどね。夜中になると、ミシッと音がするんだそうです。そうすると、それはね、天狗様がね、見回りに来るんだということでね。それは、主人のいとこに聞きましたんですよ。それだからね、「ここへ寝なさい」って言うと、みんなこわがって寝なかったそうです。
  
 天狗たちが住んでいるのは、「神様の森」あるいは「天狗の森」と呼ばれていたエリアだが、大人は子どもたちを怖がらせ、それらの禁忌的な森(山)へは近づいてはならないと教育するところは、全国各地に残る「禁忌域」伝説Click!とまったく同じだ。
  
 神隠しってぇのはね、それは、天狗様に連れてかれちゃうっていうようなね、そういうような伝説があるんです。(中略) 天狗様はどこにでも、当時は、神様の森には、必ずいたと、いうことを、人々は、江戸時代の人々は、信じていたと、それをね。ですからね、こわいところは、何かっていうとね、墓場はこわくないんだとこう言うんです。墓場はこわくないんだが、本当にこわいのは、神様の森がいちばんこわいんだと、いうことを、年寄りは言ってましたね。
  
 ここで語られている「神様の森」とは、社(やしろ)の境内になっている鎮守の杜(山)もそうだろうが、なんらかの禁忌的な場所であることが、延々と江戸期まで語り伝えられてきた様子を示唆している。


 
 つまり、古墳時代に築造された古墳の周囲で語られつづけてきた、屍家・死家(しいや)伝説Click!との結びつきだ。誰が葬られているのかは、とうに江戸期以前からわからなくなっているが、伝えられている死者の領域を侵してはならないというタブーが、「天狗」や「般若(鬼女)」などの妖怪変化と結びつけられて伝承されているケースだ。また、古墳をあばく盗掘の防止的な効果をねらい、後世に怖い話が創作されているのかもしれない。そのような地域には、寺社の境内にされてしまった事例を含め、いくつかの古墳がそれと気づかれずに存在している可能性が高い。
 このような観点を踏まえ、1/10,000地形図や空中写真を参照すると、江古田富士塚古墳とは別に、いくつかのそれらしいフォルムを地表に見つけることができる。特に江古田駅の東側に展開していたとみられる古墳時代の集落、すなわち板橋区のNo.126遺跡と豊島区の千早遺跡(行政区画を無視すれば接続した同一遺跡)の北、わずか100mほどのところには石神井川へと注ぐ支流の河岸段丘上に、サークルや鍵穴型のフォルムを確認することができる。写真では、特にいちばん西寄りに刻まれた前方後円墳らしいかたちが顕著であり、1936年(昭和11)の空中写真を参照すると、後円部にあたる墳丘(すでに開墾されて高度はそれほどなかったとみられる)の中心に、祠のようなものが祀られていたものか、小さな森が確認できる。全長はおよそ130mほどの鍵穴形状だが、とりあえず便宜的に向原古墳(仮)と呼ぶことにする。
 年代順に空中写真を参照すると、おそらく戦時中の食糧増産で後円部の残された木々も伐られ、祠はそのままだったのかもしれないが、向原古墳(仮)の全体が畑地にされているのがわかる。1947年(昭和22)や翌1948年(昭和23)の空中写真では、もはや鍵穴型のフォルムがかなり薄れて、間延びしたマッシュルームのようなかたちになっている。この地域は田畑が拡がる農村だったため、空襲の被害をほとんど受けておらず、1957年(昭和32)の空中写真でも畑地のままであり、ほぼそのままのかたちを残している。
 だが、要町通りの敷設につづき、向原小学校や周囲の住宅街の造成、そして地下鉄・有楽町線の小竹向原駅の設置などで、向原古墳(仮)は全的に消滅してしまった。要町通りや向原小学校の建設時、工事現場からなにか出土したかは記録が残っていないので不明だが、南側にあったとみられる集落跡は、板橋区と豊島区の教育委員会が調査をして、それぞれ古墳時代の遺構を発掘している。現地を歩いてみると、板橋区No.126遺跡と千早遺跡の双方ともに記念プレートは残されていないが、豊島区側の豊島高等学校や旧・第十中学校の敷地を含め、また板橋区側の向原公園を中心とした住宅街を合わせると、古墳時代の遺構はかなりの広さになる。



 また、石神井川の支流に沿った向原古墳(仮)の北北東の斜面にも、“怪しい”突起が半島状に2つ連なっていたことが、明治末の地形図を見ると確認できる。各時代の空中写真では、畑地や森、農家などが散在していて、向原古墳(仮)ほどには形状をハッキリと視認することができないが、早くから農地化や宅地化が進んでいたとみられ、より大規模な土地の改造が実施されたのだろう。
 さて、江古田駅界隈の遺跡めぐりや古墳探しはこれぐらいにして、わたしが江古田へ出かけたのには、もうひとつ理由があった。武蔵大学Click!の向かいにあるギャラリー古藤で、2005年に急逝した貝原浩Click!の「万人受けはあやしい」展が開催されていたからだ。このサイトでも、貝原浩が描いた下落合風景である『東京目白(小野田製油所)』Click!や、チェルノブイリの原発事故に関連した画文集『風しもの村』Click!(2010年)などをご紹介してきたが、彼の仕事は実に多種多様にわたっている。今回は、おもに「ダカーポ」や「出版ニュース」、「朝日ジャーナル」、「批評精神」、「アサヒ芸能」、「インパクション」、「ペンギン?(クエスチョン)」、「問題小説」、「現代農業」、「自然食通信」など雑誌類に描いた、彼ならではの戯画を中心に集めた展覧会だ。
 以前にもご紹介しているが、貝原浩の戯画は「風刺」や「揶揄」のレベルを超えて、強烈な「否定」をともなうインパクトをもっている。作品を観てまわるうちに、眉間にシワを寄せてニラミたくなるものや、つい噴きだしてニヤニヤしてしまうものなど、その果てしなく拡がり千変万化する表現力には脱帽だ。わたしが学生時代から、よく読んでいた雑誌類に掲載されていたものなので、分厚い図録も買ってしまった。同展は、2月13日(火)~18日(日)のスケジュールで、京都のギャラリー「ヒルゲート」でも開かれる予定だ。
 会場には、連れ合いの世良田律子様がいらしたので、ちょっとお話をする。今度は、日々忘れ去られ「そんなことはなかった」かのように扱われつつある原発事故の地元で、『風しもの村』作品を中心とした展覧会を企画されているそうだ。3基の原発がメルトダウンを起こした福島第一原発では、すでに汚染された水を貯蔵するタンクの敷地が足りず、廃炉処理以前に汚染水の処理自体が破綻しかかっている。


 
 世界各地の原発事故がそうであったように、一度事故を起こしてしまった原発は、これから何度でも“破綻”を繰り返していく。そのたびに、地元では危機と隣り合わせの緊張と、不安を抱えた生活を強いられなければならない。東北での展覧会に多くの人たちが集まり、成功裡に終わることを期待してやまない。

◆写真上:キャンパスの西半分が、古墳期の千早遺跡が眠る都立豊島高等学校。
◆写真中上は、1909年(明治42)の1/10,000地形図にみる向原一帯。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる鍵穴フォルムと古墳期遺跡。は、同写真の拡大。
◆写真中下は、1947年(昭和22)の空中写真にみる向原古墳(仮)の痕跡。は、1948年(昭和23)の空中写真にみる痕跡(拡大)。前後左右に土砂を拡げたような、マッシュルーム型になっているのがわかる。は、板橋区No.126号遺跡にある向原公園。
◆写真下は、豊島高等学校から江古田駅方面を眺めたところ。右側の道路のように、谷底の小流れに向かって緩傾斜がつづく。は、校庭の敷地がすべて千早遺跡に含まれる旧・第十中学校。は、貝原浩「万人受けはあやしい」展のチラシ()と図録()。
掲載した「万人向けは怪しい」展の図録(1,500円)は、「貝原浩の仕事の会」サイトClick!の書籍等の入手方法のページまで。