中村彝Click!の伝記といわれる書籍は、過去に何冊か出版されているが、その中で彝アトリエに集う画家たちが集まり、1922年(大正11)に結成された画会「金塔社」Click!について、詳しく書かれたものはない。どのような経緯や趣旨で金塔社が発足したのか、「中村彝が中心になって」と説明されることが多いが、彝は病床で動けないため名目上の代表であり、実質は鶴田吾郎Click!が会の運営・事務を仕切っていたようだ。
 彝の最晩年の時期でもあり、あまり多くは語られない金塔社について、その経緯を比較的詳しく書いているのは、やはり鈴木良三Click!の資料だろうか。金塔社は、1922年(大正11)6月23日~28日の6日間、第1回展を日本橋白木屋Click!(戦後の東急百貨店)で開催している。この第1回展に、中村彝は体調がすぐれなかったものか作品を出していない。翌1923年(大正12)の同時期に、今度は日本橋三越Click!で第2回展を開いているが、同展に中村彝はモデルの“お島”を描いた8号Sの『女』Click!(1921年)を出品している。
 金塔社について、鈴木良三が概説した文章が残っている。1999年(平成11)出版の、梶山公平・編『芸術無限に生きて―鈴木良三遺稿集―』(木耳社)から引用してみよう。
  
 そのうち安藤家に集まる連中が展覧会をやろうということになり、美校系の曽宮、寺内、耳野の他に鈴木保徳、遠山教円、中村研一、洋行帰りの遠山五郎、研究所系の鶴田吾郎、鈴木金平、鈴木信太郎、馬越枡太郎、ぼく等が加わり、中村彝さんを押し立てて金塔社を結成、白木屋で第一回展を開いた。彝さんは第一回展には出品出来なかったが、中村研一さんは百号の婦人像を出品して洋行してしまった。みんな二点ぐらいずつ出品したがぼくは彝さんに薦められて五、六点、三十号、二十五号といった大きさのものを並べて貰った。(中略) 第二回展は次の年に三越で開かれたが、この時彝さんは「エロシェンコ」と同じ大きさの少女像を出品された。/画壇では金塔社への期待感は大きかったようだが、この二回で解散してしまった。ぼくなどにそのいきさつは知らされなかったが、美校系と、研究所系との気持ちの相違から別れ話が出たものかと思う。残念なことだった。
  
 文中の「安藤」家は当時、武蔵野鉄道Click!(現・西武池袋線)の上屋敷(あがりやしき)駅Click!近くに住んでいた安藤復蔵、「曽宮」はもちろん曾宮一念Click!、寺内は寺内万次郎、耳野は少し前まで高田町(大字)雑司ヶ谷(字)上屋敷(現・西池袋)にあった農家の離れを借りて住んでいた耳野卯三郎Click!のことだ。
 耳野が転居したあと、鈴木良三は同じ農家の離れを借り受けて住み、1923年(大正12)8月31日すなわち関東大震災Click!の前日に、下落合800番地Click!へ転居してくることになる。また、第1回展に出品した画家たちの名前に鈴木金平Click!があるが、彼の年譜によれば1923年(大正12)の第2回展に出品している。画壇からは「期待が大きかった」と鈴木良三は書いているが、金塔社の結成趣旨とはどのようなものだったのだろうか?
 清水多嘉示Click!のお嬢様・青山敏子様Click!より、金塔社展に関する非常に貴重な資料をお送りいただいた。金塔社の実質的な代表である鶴田吾郎から清水多嘉示へあてた、金塔社第1回展への出品をうながす1922年(大正11)5月29日の手紙だ。鶴田吾郎の筆跡は読みやすく、小石川にあった礫川堂(れきせんどう)文具店の原稿用紙に書かれている。ちなみに、中村彝の代筆Click!をした読みにくい筆跡とは一致しないようだ。



  
 清水多嘉示様
 未だお目にかゝりませんが お名前は承って居りました、/昨日中村君から兄が金塔社に御希望ある由且仝人として仲間に入られるに就いて招介をされて参りました、/早速曽宮君にも話しましたところ 無論異議のある筈はありません、尚且他の友人にも話しましたところ多数賛成なつて兄を仝人として加はって戴くに就いて一致した次第です、で 左の様なことをご承知置き願い度いと思います、/一体金塔社なるものは或る運動とか、革命とかいふ抱負のもとに成りたつたものではありません、/又藝術上に於て現画壇に対し偉大な宣言をなして突き進むやうな手段を用ひるものではないのです、/ただ 吾々自分たちの有つてゐるもの、自分等の才能を自由に生かし発表する為に集つたものと言ひ度いのです、/而し何れかと言へば吾々は緊実といふことが基準になり、藝術観の偏盲に陥らず、凡ゆる良き藝術を求め、そして自己を失はずして真面目に自然に対して考へて行き度いと思つてゐます、/お互に友情と厚誼とを以つて 仕事を深め拡げて行き度い希望です、
  
 上記の引用が手紙の前半だが、「中村君」は中村彝、「曽宮君」は曾宮一念のことで、この3者が相談して金塔社のメンバーを誘っていた形跡が見える。先の鈴木良三の文章によれば、「美校系」の幹事が曾宮一念、「研究所系」の幹事が手紙を書いている鶴田吾郎、そして名目としてかつがれている代表が病床の中村彝……という、金塔社の人的な構図がうかがえる文面だ。
 鶴田吾郎によれば、金塔社は芸術の「運動」や「芸術観の偏盲」にとらわれない、自由かつ穏健でゆるやかなつながりであり、思いのままの作品を展覧会へ出品できる画会なので、ぜひ気軽に参加してほしい……という趣旨だったようだ。



 だが、このようなサークルや同好会のような仲間意識の“ゆるい”集まりは、メンバー同士のつながりが希薄で絆(人間関係の組織基盤)が形成されにくく、ひとたび中核(中村彝)を失うとほどなく瓦解してしまうのは、多くのメンバーたちにもわかっていたのではないだろうか。鶴田吾郎の手紙を、つづけて引用してみよう。
  
 それから吾々は毎月一回づゝ仝人の一人の宅に集つてお互に話し合ふことになつて来ました、/六月には七日の日に安藤君の家に一仝集つて展覧会の件に就いて具体的に相談することになつてゐます、/展覧会は六月廿三日より五日間、白木屋にて致します、/会場は御承知の狭いところですから一人が一間半位づゝ取れることになつてゐます。/従来展覧会をすることに就いて仝人は毎月一円づゝ会費として出すことになつてゐました、/而し確実に無理してまで出すといふまで義務的でもありません、/第一回の展覧会より是非御出品を願います、そして御上京下さらば尚好都合です、/以上簡単乍ら御報知まで
                   五月廿九日      鶴田吾郎
  
 結局、長野県で美術教師をしていた清水多嘉示は、金塔社第1回展へ作品を送ることはなかった。清水は当時、長野県の諏訪蚕糸学校に勤めていたが、1922年(大正11)は諏訪高等女学校で「中原悌二郎・中村彝作品展」を企画・開催したり、平和記念東京博覧会Click!へ出品する作品を制作したりと、参加している余裕がなかったのだろう。ちなみに同年には、林泉園Click!つづきの谷戸を描いた『下落合風景』Click!も制作している。翌1923年(大正12)6月の金塔社第2回展のとき、清水多嘉示はすでにパリへ留学していた。
 1924年(大正13)には第3回展が開かれるはずだったが、その前に金塔社は空中分解してしまう。原因は、中村彝が病状の悪化で出展作品を制作することができず、金塔社の代表でいることにも嫌気がさしたからだといわれる。また、鶴田吾郎がリーダーシップを発揮できず、結束力を高めメンバーたちの気持ちを牽引していく力がなかったからだともいわれているが、おそらくその両方だったのだろう。



 金塔社が結成された1922年(大正11)、曾宮一念は静岡県の富士宮市大宮町へ鈴木良三をともない写生旅行に出かけている。このとき、曾宮は東京から牧野虎雄Click!大久保作次郎Click!熊岡美彦Click!、高間惣七、吉村芳松、油谷達ら6人を呼んで合流している。1924年(大正13)に結成された、帝展若手による槐樹社(かいじゅしゃ)の顔ぶれが多いのも興味深いが、二科会の曾宮を除き、残りのメンバーはすべて文展・帝展の画家たちだ。大宮町での詳細な記録は残されていないが、会派Click!にまったくこだわらず人物そのものとつき合うところ、曾宮一念らしいフレキシビリティが感じられていい。

◆写真上:大雪の中村彝アトリエの採光窓と、大正期のモダンな天井照明(レプリカ)。
◆写真中上は、1922年(大正11)に金塔社第1回展が開かれた震災前の日本橋白木屋百貨店。は、1923年(大正12)に第2回展が開かれた震災前の日本橋三越百貨店。ともに、大正期の人着絵はがきより。は、お島をモデルに第2回展へ出品された中村彝『女』。
◆写真中下は、武蔵野鉄道(現・西武池袋線)で池袋からひとつめの駅だった上屋敷駅跡の現状。は、1922年(大正11)5月29日に鶴田吾郎から清水多嘉示あてに出された金塔社第1回展への出品を依頼する手紙。
◆写真下は、1923年(大正12)の渡仏前に長野で描かれたとみられる清水多嘉示『風景』。は、1922年(大正11)3月に撮影された諏訪高等女学校の記念写真。後列には清水多嘉示や土屋文明が写り、女学生の中に平林たい子Click!の姿がある。は、下落合623番地のアトリエ前庭で撮影された曾宮一念。(提供:江崎晴城様Click!) 背後に見えているのは、佐伯祐三Click!の制作メモ「浅川ヘイ」Click!で知られる浅川秀次邸の塀。
掲載している清水多嘉示の作品・資料は、保存・監修/青山敏子様によるものです。