ある日突然、羽ぶりがよくなってカネ持ちになり「〇〇長者」になったという伝説は、江戸東京はもちろん全国各地に類似の物語として伝承され現存している。以前、落合地域の南西側に伝わる「中野長者(朝日長者)」をはじめ、いくつかの長者伝説Click!をご紹介した。きょうは落合地域の東側、牛込地域で語り継がれた「だらだら長者」伝説について検討してみたい。
 「だらだら長者」の「だらだら」は、しじゅうヨダレをたれ流しオバカのようにふるまっていたので(一条大蔵卿Click!のように偽装だったという説もある)、そう名づけられたとされているけれど、後世の芝居がかった付会臭がして真偽のほどはわからない。「だらだら」は、もうひとつ別の意味としての「だらだら」していた、つまりひがな1日働きもせずゴロゴロしていた怠け者にもかかわらず、なぜか突然おカネ持ちになった「長者」だから、あえて付与された副詞なのかもしれない。同様の伝承は、信州の有名な「ものぐさ太郎」に物語の類似形をたどることができる。
 「だらただら長者」と呼ばれた(生井屋)久太郎は、筑土八幡社や津久戸明神社の裏手に大きな屋敷をかまえて住んでいたという以外、本人の素性には諸説あってまったくハッキリしない。筑土八幡社の周囲は、幕府の旗本屋敷がひしめき合うように建ちならび、それぞれ氏名まで含めて素性はあらかた知られている。かろうじて町場が形成されているのは、筑土八幡社と津久戸明神社、そして万昌院のそれぞれ門前町のみだ。根岸や向島の別荘地とは異なり、乃手Click!であるこれらの町辻には、町人が大きな屋敷をかまえる余地はなさそうに見えるが、寺社の境内や旗本の屋敷地の一画を借りて、大きな屋敷を建てていたものだろうか。
 筑土八幡社の裏手には、現在でも銀町(しろがねちょう=現・白銀町)の地名が残っているが、この「銀」が「だらだら長者」と具体的にどうつながるのかも不明で、また上大崎や青山に残る「黄金長者」や「白金長者」との近似性や関連性も、もはや途絶えたのかまったく伝わっていない。だが、「だらだら長者」が実在の人物だったのは確かなようで、町奉行所の与力上席・鈴木藤吉郎(市中潤沢係/20人扶持)らとともに、不正蓄財の容疑で町奉行・池田頼方から摘発・追及を受けている。
 不正蓄財とは、米の価格をつり上げる相場師のようなことを、「だらだら長者」と役人の鈴木藤吉郎が組んでやっていたのだ。ふたりは、江戸市中の御蔵米を大量に買い占めて市場に出まわる米の流通量を抑制し、米価が高騰したところで売り逃げするというボロい商売をしている。鈴木藤吉郎は町奉行所の役人なので、当然米の買い占めや出荷の意図的な操作を取り締まる側のはずだった。御蔵米の買い占めで貯めた財産は、両人合わせて膨大な額になると想定されていた。
 それを裏づけるかのように、奉行所の家宅捜査では筑土八幡裏の「だらだら長者」屋敷にあった手文庫から200両の現金と絵図が、また摘発からしばらくたった1859年(安政6)には、同屋敷から道をはさんだ向かいの廃墟のような屋敷へと抜ける地下トンネルから、油樽に入った1,200両の小判が発見されている。
 さらに奇怪なことに、奉行所に捕縛され小伝馬町牢屋敷Click!の揚屋へ入牢した鈴木藤吉郎は、ほどなく急死(毒殺といわれる)している。御蔵米の買い占めが、単に久太郎と鈴木による犯行ではなく、それを黙認して上澄みをかっさらっていたらしい、老中をはじめ幕閣の存在が浮かんできたため、口封じに殺されたのだとする説が有力だ。当時、米穀の売買には幕府の認可が必要で、鑑札がなければできないはずだった。このあたり、幕府上層もからんだ不正売買の可能性が臭うので、“口封じ”説がリアリティをもつ。
 同様に、与力・鈴木藤吉郎の捕縛から間もなく、「だらだら長者」こと久太郎も屋敷内で変死(こちらも毒殺といわれる)している。こうして、御蔵米買い占めで貯めた莫大な利益が、いったいどこに隠されているのかが、江戸市中の話題をさらうことになった。



 そのときの様子を、1962年(昭和37)に雄山閣から出版された、角田喜久雄『東京埋蔵金考』所収の「筑土八幡の埋宝」から引用してみよう。
  
 とにかく、そのような奇怪な、長者屋敷のからくりが世に出たため、埋宝説は一層有力となって、土地の有志が先達で、長者屋敷のそちこちが掘り起されたのは、安政六年の夏からである。この時は、町奉行所でも後援したらしく、与力や同心が毎日のように現場を見廻っていたと伝えられている。そして、地下道の一部から、油樽にはいった小判千二百枚を発見したと言われているが、その処分がどんな風に行われたものかは伝わっていない。長者の豪勢な生活からみても、それが埋宝の全部でないことは、当時誰しもの一致した意見で、その後も個人的にたびたび発掘を計画したものもあるが、ほとんど得るところなく明治維新を迎えたのである。
  
 角田喜久雄は、戦前に活躍した大衆小説や推理小説の作者であり、その文章を読んでいると、まるで自身がその場に立ちあって見てきたような会話や情景が描かれており、あちこちに講釈師あるいは講談師の臭気を感じて、どこまでが史的な裏づけがある事実なのかはハッキリしない。だが、筑土八幡社周辺の“宝さがし”は明治以降もつづけられ、昭和に入ってからも新聞ダネになっているのは事実だ。
 さて、この「だらだら長者」伝説で重要なポイントは、不正蓄財でもうけた大判小判の宝がどこに埋まっているか?……ではない。生井屋久太郎が、御蔵米を買い占められるほどの元手を、どうやってこしらえたのか?……という点だ。すなわち、しじゅうヨダレを流している、あるいはふだんはなにもしないで遊び呆けているような人物が、ある日突然、御蔵米の買い占めという大きな資金を必要とする“投機”に手をつけはじめ、町奉行所の与力を巻きこみつつ、雪だるま式に財産を増やしていき、やがて筑土八幡社の裏にたいそうな屋敷をかまえる富豪にまで「成長」することができたのは、どのようないきさつやきっかけがあったのか?……ということだ。
 以前にも書いたけれど、もともと蔵をいくつも所有しているようなカネ持ちが、なにかの事業に投資し改めて成功しても物語としては成立しにくいが、もともと貧乏だった人物が、ある日を境に突然カネまわりが目に見えてよくなり、次々とビジネスにも成功して大富豪になる、あるいは立身出世するという話は、人々へ強烈な印象を残すので、後世までの語り草となり伝承されやすいものだ。
 また、そのような物語には周囲の妬みや嫉みが強くからみ、「悪行のむくい」「祟り」「バチ当たり」「憑き物」「因果応報」「凶事」など、怪談や妖怪譚などをまじえた不幸な教訓話が付随・習合することもめずらしくない。おそらく「だらだら長者」にも、当初はさまざまな付会=怪しげなウワサや尾ひれがついていたのではないかと思われるのだが、今日まで伝わる不吉な出来事やエピソードは、主犯の変死以外には残っていない。



 さて、久太郎が暮らしていた筑土八幡社裏の高台は、神田上水Click!(大堰から下流は江戸川Click!)沿いに形成された河岸段丘の北向き斜面であり、室町期に起因するとみられる昌蓮Click!がらみの百八塚Click!伝承のエリア内だ。特に、筑土八幡社から西へ万昌院、赤城明神社へと連なる丘は、北側が絶壁に近いバッケ(崖地)Click!状の段丘地形をしており、古墳が形成されてもおかしくない地勢をしている。事実、筑土八幡町と白銀町は下落合とまったく同様に、縄文時代から現代まで人々が住みつづけている重層遺跡として、新宿区から指定を受けている。もちろん、古墳時代の遺跡もその中に含まれている。
 そのような視点から、戦後の焼け野原となった同地域一帯を、1947年(昭和22)の空中写真で観察してみたが、残念ながら古墳らしいフォルムはもはや発見できなかった。いや、むしろ筑土八幡社や万昌院、九段へ移転してしまった旧・津久戸明神社跡(住宅地)、そして赤城明神社など寺社の境内がそれらの遺跡なのかもしれないのだが、戦前の発掘調査の有無とともに明確に規定することができない。
 しかし、すぐ西隣りの下戸塚(現・早稲田地域)では、江戸時代に富塚古墳Click!(高田富士Click!)ないしはその陪墳域から、周辺を開墾していた農民が「竜の玉」と「雷の玉」という宝玉Click!を見つけ、牛込柳町の報恩寺(廃寺)へと奉納している。これらの宝玉は、たまたま盗掘をまぬがれていた玄室から発見された副葬品とみられており、当時はかなりの価値をもつものだったろう。同様に、古墳の玄室には金銀宝玉を用いたさまざまなアクセサリー類の副葬品が埋蔵されており、それらの財宝を掘り当てる(盗掘する)ことを職業にしていたプロも存在していた。
 副葬品の金銀財宝はもちろん高額で売れ、もはやサビだらけで朽ちそうな鉄剣・鉄刀などの古墳刀Click!もまた、江戸時代にはかなりの高値で取り引きされている。なぜなら、古代のタタラで鍛えられた古墳刀の目白(鋼)Click!を、江戸期の鉄鉱石から製錬された鋼に混ぜて折り返し鍛錬をすると、より強靭で折れにくく、斬れ味の鋭い日本刀が製造できたからだ。江戸に住み、新刀随一の刀匠とうたわれた長曾根興里入道虎徹(ながそねおきさとにゅうどうこてつ)の「虎徹」は、寺社の古釘や古墳刀の目白(鋼)を、つまり「古鉄」を混ぜる独自技法を発明したからそう名乗っているのであり、のちに模倣者が続出して稀少な「古鉄」の価格は急上昇することになった。
 また、古墳刀についた赤サビは、刀の研師Click!の最終工程である「刃どり」を仕上げる際の、理想的な磨き粉として貴重かつ高価なものだった。古い目白(鋼)にわいた赤サビを粉砕してつくる粉は、現在でも日本刀の磨き粉として研師の間で珍重されており、江戸期とまったく変わらない技法が伝承されている。
 さて、これらのことを踏まえて考えてくると、働きもしないでだらだら怠惰に暮らしていた生井屋久太郎こと「だらだら長者」が、なぜ御蔵米を買い占める元手=資金を突然手に入れられたのかが、なんとなく透けて見えてきそうだ。それは、淀橋をわたって大型の古墳域だったと思われる柏木地域へ出かけていく「中野長者」が、日々裕福になっていった経緯と同一のものだったのではないだろうか。もっとも、「だらだら長者」伝説には、とりあえず「橋」にまつわる出来事は伝えられていないが、より古墳の羨道や玄室をイメージさせる、地下トンネルにまつわるエピソードがリアルに伝承されている。



 全国各地には、動物の導きで地面を掘ったり、藪をかきわけて山(森)に分け入ってみたら、大判・小判や財宝がザクザク出てくるフォークロアが伝承されている。すぐに思いつくだけでも、有名な「花咲爺」や「舌切り雀」などが挙げられるけれど、みなさんの地元では「にわか長者」に関するどのような昔話や民話が伝わっているだろうか?

◆写真上:筑土八幡社の西側に隣接する、平将門を奉った津久戸明神社跡の現状。津久戸明神社は戦災で焼けたため、1954年(昭和29)に九段へと遷座している。
◆写真中上は、筑土八幡社の拝殿へと向かう階段(きざはし)。は、同社の拝殿。は、右側が筑土八幡社で左側が津久戸明神社の階段があった跡。
◆写真中下は、筑土八幡社の階段上からバッケ状の地形を見下ろしたところ。は、津久戸明神社跡の崖地。は、1852年(嘉永5)に制作された尾張屋清七版の切絵図「牛込礫川小日向絵図」にみる、筑土八幡社と津久戸明神社の周辺域。
◆写真下は、「花咲爺」の挿画(作者不明)。は、1857年(安政4)制作の二代広重「昔ばなし一覧図絵」。は、明治期の制作とみられる河鍋暁斎『舌切り雀』。