佐伯祐三Click!を含む、1930年協会Click!の画家たちが特高警察Click!に目をつけられていたのは、実際に福本和夫との関係から検挙Click!されて拷問を受けた前田寛治Click!を除き、あまり知られていない。ある方から、旧・内務省の内部資料(警視庁特高警察資料)をいただいたので、フランスから革新的な表現を持ち帰った画家たちが、いかに特高警察の内偵を受け監視されていたのかを見ていきたい。
 ヨーロッパで展開された絵画表現の運動には、内部でリベラリズムやアナキズム、サンディカリズム、マルキシズムなどと、どこかで緊密につながっていたことは知られているが、当時の内務省もその側面を懸念して、特高警察に捜査の指示を出していたのだろう。特に東京美術学校や文展・帝展の「アカデミズム」を否定し、革命的な表現を手に入れたフォービストやキュビスト、シュルレアレスト、そのほかアブストラクト=反アカデミズムの画家たちを、「アカ」ではないかと見なし(どっちが「アカ」なんだかw)、内偵・監視・尾行をしていたようだ。
 旧・内務省の特高警察資料『社会運動の状況16』にまとめられた、1939年(昭和14)の「美術文化」項目から引用してみよう。ちなみに、ここでは1930年協会から前田寛治と里見勝蔵、佐伯祐三の名前が挙がっている。なお後述するけれど、佐伯祐三に関しては兄の佐伯祐正も、大阪府警の特高から要注意人物として監視されていたのがわかる。
  
 昭和二年頃前田寛治(常時帝展審査員)、里見勝蔵、佐伯裕三(ママ:祐三)等を中心とする、フォービズム(野獣主義)画家の一団は、反アカデミーを標榜して「一九三〇年協会」を結成したるが、同協会の設立と前後して福本和夫と親交し、マルクス主義的思想を抱持せる前記前田寛治は同協会の主義主張に憚らず、同協会と別個に同志金子吉彌(後ヤツプに加盟)、新居蘆治(〃)、杉柾央(〃)等の急進的分子を糾合し、「前田写実研究所」を創立し、其の絵画精神として十九世紀の革命画家クウルベーの精神を採用セリ。然るに其の後「一九三〇年協会」は中心人物たる前田寛治、佐伯裕三(ママ)の死亡に依り自然消滅の状態に至りたる処、当時予てよりフランスに遊学中の福澤一郎、清水登之、林重義、海老原喜之助、高畠達四郎等が相前後して、シュール・レアリズムなる新傾向を携へて帰朝し、茲に之等新帰朝者及「一九三〇年協会」会員たりし里見勝蔵、其の他前衛画家の一群を糾合して反アカデミーを標榜し、フランスの急進画家の一群なる所謂「アンデパンダン」(独立)に倣ひ、昭和五年「独立美術協会」を結成したる…(後略) (カッコ内引用者註)
  
 佐伯の名前をまちがえるなど、たいして注視していないように見えるのだが、のちの資料から欧州旅行を繰り返す佐伯兄弟が、ふたりともマークされていた可能性が高い。
 鳥取県が同郷の前田寛治と、「福本イズム」で有名な福本和夫とはフランスで知り合っているが、1926年(大正15)暮れから翌年にかけて住んでいた長崎町大和田1942番地の自宅には、前田寛治とともに福本和夫の表札が出ていたのを、訪れた木下謙義が確認している。福本は住んでいたわけではないので、アジトのひとつとして使っていたのだろう。1928年(昭和3)の「三・一五事件」では、それが原因で前田寛治は高田警察署Click!(現・目白警察署)の特高に逮捕され、執拗な拷問とともに福本のゆくえを追及されている。


 佐伯祐三が警察から目をつけられたのは、第1次渡仏前にフランス文学者でアナキストの椎名其二Click!と知り合ったころからだろう。1980年(昭和55)に中央公論美術出版から刊行された山田新一『素顔の佐伯祐三』から、その証言を聞いてみよう。
  
 佐伯が椎名氏を知ることになったのは、佐伯がいよいよヨーロッパ行きを決意する前後のころであった。大正十一年、当時、椎名氏はフランスからマリー夫人を伴って里帰りし、フランス文学者の吉江喬松先生の推輓で、早稲田大学の文学部講師を勤めていた。佐伯がどういう伝手で椎名氏と近づきになったのか明確ではないが、この三十なかばの先輩のマダムからフランス語を教えてもらうことになった。若い頃から、アメリカに渡り、ミズリー州立大学の新聞科を卒業し、セント・ルイスやボストンでの新聞記者生活を経て、ロマン・ロランに傾倒してフランスに渡った椎名氏と佐伯は、最初から精神的に相触れあうものが実に深かった。(中略) しかし、不幸にも椎名氏はその後、左翼的思想のために日本に滞まることが困難になり、教職を辞して昭和二年、フランスに帰って行った。
  
 椎名其二は第2次渡仏をした佐伯とパリで再会し、死ぬまで身近に寄り添っている。
 また、佐伯が日本にもどっていた1926~1927年(大正15~昭和2)、急速に親しくなった友人に、小説『恐ろしき私』の著者・中河與一がいる。佐伯が挿画を担当した同書だが、中河はのちに佐伯との交流から、彼の心情を“代弁”するような文章を残している。1929年(昭和4)に1930年協会から出版された『画集佐伯祐三』所収の、中河與一「佐伯祐三は生きている」から引用してみよう。
  
 私は仕事をすればよかつたのだ。キタナイ着物が好きだ、總て弱い痛められた者と親和にみちた心で生きたい。私は正しくして不遇なるものと一緒に居りたい。私は乞食が好きだ、乞食のやうな労働者が。匂ひのする裏町が好きだ。自分に信念がある時、人に笑はれる位は平気だ。なるべくキタナイ風をして歩きたい――
  
 いつも職工のような菜っ葉服を着て、佐伯は画道具を抱えながらパリの街角を歩き、メーデーのデモ隊に出会うと親しげに手をふってシンパサイズしていた様子も記録されている。反アカデミックな表現法を携えて、ヨーロッパからもどった佐伯の人脈や言動が、特高の目を惹かなかったとは思えない。同時に、セツルメント建設の名目で渡欧した、佐伯祐三の兄・佐伯祐正も警察から注視されていたようだ。



 特高資料「社会運動の状況16」の1941年(昭和16)の項目には、佐伯の実家である光徳寺(大阪)でセツルメントを経営し、演劇集団「国民芸術座」を主宰していた住職・佐伯祐正が、「要注意文化団体」としてマークされている。同資料から引用してみよう。
  
 ◆国民芸術座  所属員種類及其の概数:一二名/創立年月日:昭和十六、十一、一改名/綱領主旨:新国民演劇樹立を目的とす/主なる運動:新国民演劇協会名称変更し引続き勉強会四回を開催す/中心人物:佐伯祐正
  
 吉野作造Click!の民本主義を体現し、小林多喜二Click!の妻・伊藤ふじ子Click!も通っていた東京帝大セツルメントをはじめ、たとえそれが資本主義的な民主主義思想や自由主義思想、あるいはキリスト教や仏教などにもとづくセツルメント運動であっても、もはや国家に異議を唱える団体や人物を許容しない特高は、「アカ(系)」=「共産主義系文化団体」に分類して容赦なく弾圧していった。自国が依って立つ国家・経済基盤の政治思想を、自ら否定する特高(内務省)の矛盾、ひいては大日本帝国の「亡国」思想は破滅(敗戦)の日までつづくことになる。光徳寺のセツルメントにも昭和初期から戦時中にかけ、特高の刑事が何度か顔を出しているのではないだろうか。
 さて、佐伯の「左翼」に対するシンパサイズだが、特に明確な思想性があったようには見えない。なんとなく共感する、文字どおり「シンパ」のレベルで終わってしまったのではないかと思われる。それについて、1929年(昭和4)に1930年協会から出版された『一九三〇年協会美術年鑑』に、前田寛治が的確な文章を残しているので引用してみよう。
  
 彼が工場を画こうとし労働を表そうとした数枚の作品も思想的に動かされてゐたと思はれる。然しそのことは彼の芸術には却つて障害になる位で、彼はそれよりも同じ題材に結びつく所謂汚さに存在する異様な感覚の魅力にひかれたので、この感覚が彼の芸術を他に類例のない独自的なものにしたのだと云つても差支へないと思ふ。(中略) 彼の外部からうけ入れられた思想は仮令一時彼の生活となり芸術となつてゐたとはいへ、遂にそれは桎梏となつて彼を苦しめたに過ぎない。彼の先天的の表現は法則を忘れた忘我製作であつたと思はれる。彼を動かした宗教は燦然とした太陽の様な健康さだつたらう。にも関らず彼自身は薄暮に消滅しようとする銀灰色に陶酔した。彼を動かした思想は力に満ちた労働だつたらう。にも関らず彼は休息と慰安と消散のキャフエ・テラスの光景に陶酔した。彼を動かした芸術は思索的なレアルの表現だつたらう。にも関らず彼は最も感覚的な表現に没我した。
 


 この特高資料が編纂された1939~1941年(昭和14~16)ごろは、戦争へと突き進む政府に異を唱える人物たちはすでにほとんどが刑務所の中であり、特高警察の仕事は“ヒマ”になりつつあったろう。そこで組織の存在や成果をアピールするかのように、「横浜事件」に象徴されるように雑誌の記者や書籍の編集者、あるいは大学の学者など知識人をターゲットに、虚偽でかためた「治安維持法違反」事件をデッチ上げていくことになる。ちょうど、現代の中国が「民主派」や「人権派」と呼ばれる人々に対して行っている弾圧と、まったく同じ手口だ。
 ちなみに、今日の法制に照らしてみると、同郷の福本和夫をかくまい革命思想に共鳴しているとみられた前田寛治が、「危険」人物と判断され逮捕された時点で、同様に1930年協会のメンバー全員も「共謀罪」容疑で引っぱられ、警察の取り調べを受けているだろう。ある意味では、当時よりもシビアな状況に陥っているのに、改めて愕然とする。

◆写真上:1928年(昭和3)に制作された佐伯祐三『共同便所』。日本にいた1926~1927年(大正15~昭和2)にかけ、佐伯はアトリエに隣接した自邸の便所Click!も描いている。
◆写真中上は、1928年(昭和3)の第2次渡仏期に描かれた佐伯祐三『工場』。は、特高資料『社会運動の状況16』の「美術文化」に記載された1930年協会と佐伯祐三の動向。この項目は、「プロレタリア文化運動」の章に分類されている。
◆写真中下は、1927年(昭和2)ごろに制作された佐伯祐三『靴屋』。は、同特高資料にみる光徳寺住職・佐伯祐正の国民芸術座で「共産主義運動」の章に分類されている。は、1927年(昭和2)に描かれた佐伯祐三『カフェのテラス(カフェ・バー・ホテル)』。
◆写真下:ともに大阪の光徳寺に佐伯祐正が建設したセツルメントで、外観()と内観()。室内の奥には、佐伯祐三の作品があちこちに架けられているのが見える。