夫である壺井繁治Click!が、二度と政治活動は行わないと「転向」を表明し、1934年(昭和9)5月に豊多摩刑務所Click!から保釈されたあと、壺井栄Click!は留守番をしていた上落合(1丁目)503番地の借家を解約している。子どもも含めた一家は、いったん壺井繁治の故郷である四国の高松へと帰郷したものの、地元の警察が面倒を避けたかったのだろう、「どうか、1日でも早く東京へ引き揚げてくれ」とうるさいので、壺井一家は再び上落合(2丁目)549番地の借家へと舞いもどっている。
 壺井繁治はその家から、岡田復三郎が起ち上げた現代文化社に通勤するようになった。現代文化社は、壺井繁治の保釈とほぼ同時の1934年(昭和9)6月に、雑誌「進歩」を創刊している。当時の複雑な心境を、1966年(昭和41)に光和堂から出版された壺井繁治『激流の魚・壺井繁治自伝』から引用してみよう。
  
 (前略)わたし自身についていえば、戦争とファシズムに反対する共産主義運動の組織から離脱したが、共産主義思想そのものの正しさを否定しているわけではなかった。だから戦争の拡大とファシズムの激化という外的現実は、自分の内部的論理と常に摩擦を起こさずにはいられなかった。けれども自分の内部的論理が、戦争とファシズムという現実と対決して行動の論理に転嫁し、実践化されるためには、その論理と分かち難く融合して統一された主体を構成しなければならぬ感性が傷つき、挫折していた。その傷を癒やすこと、挫折からもう一度起ち上がろうとすること自体が、辛うじて戦争とファシズムへの対決であった。
  
 壺井繁治は、「内部的論理」と外部的な「行動の論理」とに矛盾を抱える、「転向」者として苦悩していた。その苦悩や葛藤は、妻の壺井栄Click!にもひしひし伝わっていただろう。だが、壺井栄は相変わらず獄中の“同志”を支援しつづけ、宮本百合子Click!窪川稲子(佐多稲子)Click!中野鈴子Click!らとともに「働く婦人」を編集しつづけており、「内部的論理」と「行動の論理」が統合された世界に生きていた。壺井繁治は、沈黙する妻との乖離感に、少なからず息苦しさをおぼえていたにちがいない。
 壺井繁治は、翌1935年(昭和10)になると現代文化社の岡田復三郎を説きふせ、詩誌「太鼓」を創刊している。解体されてメディアを失った、日本プロレタリア作家同盟に参加していた詩人たちを集め、再び文学活動を再開するのがおもな目的だった。当時の心情を、壺井繁治は詩に託して詠んでいる。
  
 あの標本室には/わたしの死骸が並んでいる/たくさんの仲間と共に/ピンで止められて/喪章の如く静かに
 それなのに/あの痩せて尖った昆虫学者は/首をひねりひねり/考えこんでいる/ときどきわたしの翅が/微かに動くので/こいつ/まだ死にきれぬのか/太い野郎だ/それとも風のせいかな/そういって/昆虫学者はぴしゃりと窓を閉めた
  



 1935年(昭和10)11月に創刊された詩誌「太鼓」には、巻頭論文として小熊秀雄Click!の『風刺詩の場合』が掲載されている。また、壺井繁治自身は“からめ手”から政府を批判し、英米語の排斥運動を行う国粋主義者たちを揶揄する、風刺詩「英語ぎらい」を発表した。そのほか、金子光晴や松田解子、森山啓、大江満雄、新島繁など発表のメディアを奪われた詩人たちが作品を寄せている。そして、同じ創刊号には中野鈴子の詩『一家』と、随筆『「父親しるす」について』が掲載されている。
 壺井繁治と中野鈴子が急速に親しくなったのは、詩誌「太鼓」の創刊号を準備していたころ、すなわち1935年(昭和10)の秋ごろからだと思われる。そして、ふたりの関係が壺井栄にバレたのが、翌1936年(昭和11)4月ごろのことだといわれている。壺井栄は、ふだん温厚な彼女にしてはめずらしく激高した。
 壺井夫妻は、中野重治Click!原泉Click!夫妻と妹の中野鈴子とは家族ぐるみの付き合いであり、特に中野鈴子とは戸塚(4丁目)593番地の窪川鶴次郎・稲子邸Click!でつづけられていた、雑誌「働く婦人」の編集仲間でもあった。だから、ごく親しい友人であり同志、というか7つ年下の妹のような存在に裏切られたという意識から、ことさら強いショックを受けたのだろう。まるで、鎌田敏夫のドラマ『金曜日の妻たちへ』のような展開だが、謝罪に訪れた中野鈴子の横っ面を、壺井栄は思いきり張り倒して泣きわめいた。それでスッキリしたのか、壺井栄は中野鈴子を許している。
 「転向」をめぐり、妻との間にできてしまった溝からくるさびしさや不安を、壺井繁治はいつも明るく少し“天然”でトボけた中野鈴子と付き合うことで、まぎらわせようとしたのかもしれない。同じようなことが、窪川稲子(佐多稲子)Click!と夫の窪川鶴次郎との間でも起きている。夫の「転向」に対し、揺るがずに活動をつづける妻たちを目の当たりにした夫たちは、自身の敗北感や挫折感をイヤというほど味わされ、徐々に妻を鬱陶しく煙たい存在として意識していたのかもしれない。


 
 壺井栄は晩年、川西政明Click!のインタビューに応じ、「今でも思い出すと恥かしいと思う。だから私は、金輪際その時のことを誰にも口に出さなかったのよ。普通なら夫婦別れもしたかもしれないわ。だけどさ、私には、自分の選んだ結婚を、築き上げてゆかねばならないという責任と云ったら偉そうだけど、くだいて云えば意地もあったろうし、おやじ(繁治)と別れられなかったんだね」(『新・日本文壇史』第4巻・岩波書店/2010年)と、しみじみ答えている。
 中野鈴子は、さっそく壺井繁治と訣別したあと、壺井栄あてに10通もの詫び状を書いている。これを読んだら、壺井繁治の立つ瀬はまったくなかっただろう。
  
 わたしは、栄さんが壺井さんがそんなに公明正大なのに対して、私は何と云ふうそつきで不正直なのでせう。わたしは自分の不正直さをみんなこゝに申上げまして改めて御了解して頂きたいと思います。わたしが中条さんいね子さんに壺井さんを悪く云ふと云ふことを結果においてさうなりましたかも分かりません。/わたしは、自分のあの当時のことを正直に告白して、そして、壺井さんを悪いやうに云ふてあることについては徹底的に取り消します。責任をもつて取り消します。そして深くお詫び申し上げます。(中略) ありのまゝを申し上げました。この手紙は書きあやまりのないやうに注意をして書きました。この手紙のまゝですと、わたしの気持ちの中には壺井さんに対して心が残ツてゐると理解になりますかと思います。/自然な心持としてはのこりますのが本当かも分りません。昨日までは、わたしは残つてゐないと自分に思い込んでゐました。しかし、鏡に映し出されゝばのこつてゐるかも分りません。けれども、これは、わたしは自分の責任として、背負います。と同時に、一日も早く、忘れてしまいたいと思いますし、出発点のことや、自分の犯したことに対する反省と良心とで消し去るものであることを信じます。わたしは改めて、もう決して、不正なことはしない決心でをります。決して自分をあまやかしたりしないことを誓います。
  
 既婚者を好きになることが、今日的な倫理観からみれば総じて「不正」なことなのかどうかは別にして、壺井栄は彼女の真摯で一途な姿勢を受け入れたのだろう。


 壺井繁治の『激流の魚・壺井繁治自伝』には、もちろん中野鈴子との関係はまったく触れられていない。現代文化社から刊行された詩誌「太鼓」は、壺井繁治が「転向」直後に模索したきわめて重要な抵抗のかたちであり、印象的なエピソードであるにもかかわらず、サラッと1ページほどの記述で済ませている。そして、すぐにも上落合のサンチョクラブClick!結成へと話を進めている裏側には、ふだんはニコニコと温厚な壺井栄がかいま見せた修羅が、彼にはよほどこたえ、怖かったものだろうか。

◆写真上:上落合(2丁目)549番地にあった、壺井繁治・栄夫妻邸跡を東側の接道から。
◆写真中上は、豊多摩刑務所(のち中野刑務所)の正門。は、同刑務所正門の扉を内側から。下は、1960年代の撮影とみられる同刑務所の独居房。
◆写真中下は、上落合(2丁目)549番地の壺井繁治・栄夫妻邸跡(正面)を西側の路地から。は、1940年(昭和15)に撮影された壺井栄。下左は、1959年(昭和34)に撮影された壺井繁治。下右は、1939年(昭和13)ごろ撮影の中野鈴子。
◆写真下は、上落合(2丁目)783番地のサンチョクラブ跡。は、鷺宮の自邸で1960年代半ばごろに撮影された壺井繁治と晩年の壺井栄。