1910年(明治43)ごろから大正期にかけ、小島善太郎Click!は洋画の勉強に谷中真島町1番地にあった太平洋画会研究所(旧)Click!へ、大久保の中村覚邸Click!から通わせてもらっている。同研究所は、中村不折Click!満谷国四郎Click!吉田博Click!らが1901年(明治34)に創立した太平洋画会を母体としているが、そこへ習いにきている画学生には中村彝Click!大久保作次郎Click!、足立源一郎、野田半三Click!らが、彫刻部には中原悌二郎Click!や戸張孤雁らがいた。
 ちょうど明治末から大正初期は、欧米へ留学していた画家や文学者たちが続々と帰国し、新しい思想を日本へと伝えている真っ最中の時代だった。洋画界では安井曾太郎Click!有島生馬Click!らがヨーロッパからもどり、文学では島崎藤村が渡欧して、国内では阿部次郎らの評論誌「白樺」や初の女性誌「青鞜」が創刊されている。また、1909年(明治42年)に欧米をまわって帰国した高村光太郎は、父親Click!が推薦してくれた東京美術学校Click!の教職をことわって駒込にアトリエを建設している。
 高村光太郎がヨーロッパで描いた画面を見せに、新宿中村屋Click!裏の柳敬助Click!アトリエ(のち中村彝のアトリエClick!)へ立ち寄っているとき、小島善太郎は偶然にも自身の作品を手に柳敬助を訪ねている。そこには、柳敬助と高村光太郎のほか、太平洋画会研究所の先輩でデッサンの「王者」Click!と呼ばれていた、新宿中村屋へ転居してくる直前の中村彝も同席していた。
 小島善太郎は、太平洋画会研究所での勉強を通じて、数多くの先輩画家や同輩の友人たちと知り合うのだが、その中にポツンと女性の画学生がひとり混じっていた。この当時、女性が洋画を習うには、本郷菊坂町89番地の女子美術学校Click!や師と仰ぐ画家、たとえば岡田三郎助Click!の私塾などへ通うのが一般的だったが、彼女は男ばかりの同研究所に通っては絵を勉強していた。名前は長沼智恵子といい、すでに目白の日本女子大学Click!を卒業して、洋画を改めて習得しに同研究所へとやってきていた。
 小島敦子様Click!にいただいた、1992年(平成4)出版の小島善太郎『桃李不言』(日経事業出版社)に収録された「智恵子二十七、八歳の像」から引用してみよう。同エッセイは、1977年(昭和52)出版の『高村光太郎資料第6集』に掲載されたものだ。
  
 その中に一人の女性の居るのがひどく目立ち、年の頃二十五、六歳に見えた。背は低かったが、丸顔で色が白く華車(ママ:華奢)な体に無口で誰とも親しまず、唯人体描写を静かに続けていた。その画架の間からのぞかせた着物の裾があだっぽく目につくといった女性的魅力を与え乍らも、ひとたび彼女のそうした気風に触れると誰としても話しかける訳にはいかなかった。画に向っては気むずかしく、時には筆を口にくわえ画面を消したりもする。しとやかに首をまげたなり考え込んでいる時もあった。手は絵具で汚れたりしたのであろうに、絵具箱は清潔で女らしい神経が現れていた。/人体描写が昼までで終ると、さっさと道具を片付けるなり例の無口さで帰って行く。帰る時コバルト色の長いマントの衿を立てたなり羽被って、白い顔をのぞかせ、顔の上には英国風に結った前こごみの束髪が額七分をかくし、やっと目を見せていた。彼女はやや前に首をかしげて歩く----それがくせの様にとれ、我々に見られるのがいやなのか、歩くのが早くて消えて行く様であった。
  



 小島善太郎は、その真面目な性格から絵の勉強に集中しているようでいて、けっこう同窓のめずらしい女性を細かく観察していた様子なのが面白い。
 長沼智恵子は、一見おとなしめでもの静かな印象とは裏腹に、気性や感情の起伏が激しいせいか、あるいは癇性できわめてプライドが高かったせいか、太平洋画会研究所内で行われた制作コンクールで、同研究所の実質的なボスである中村不折のアドバイスを、まったく無視して聞かなかったようだ。小島善太郎も参加していた、年末に行われる制作コンクールで、長沼智恵子は人体の色を太陽6原色(赤、橙、黄、緑、青、紫)で描いていた。彼女は、特にエメラルドグリーンが好きだったものか、この日のコンクールに限らず、それまでも画面へ常に多用していたようだ。
 制作中の画面を見た中村不折が、「エメラルドグリーンは、いちばんの不健康色だ。不健康色はつつしまねばならない」と忠告したらしい。エメラルドグリーンのどこが「不健康色」なのか、いまの感覚からすると意味不明な言葉だが、長沼智恵子は首をかしげたまま、師の言葉になにも反応せず黙ったままでいた。そして、中村不折が背後からいなくなると、「このアカデミズム!」と思ったかどうかは不明だがw、エメラルドグリーンをこれまで以上に画面へ塗りたくりはじめている。
 明らかに、師への反感・反抗が直接爆発した瞬間であり、小島善太郎はことさら印象深くその場面を眺めていたのだろう。彼は、師がまだ教室にいるにもかかわらず長沼智恵子が不満を爆発させたのは、欧米から最先端の洋画表現や技法をもち帰っていた高村光太郎と、すでに知り合っていたからだろうと推測している。
 


  
 何時か彼女の姿は研究所内に見かけなくなった。「長沼智恵子は高村光太郎と結婚したそうだ。----」/その後になって、なる程と僕は肯いた。彼女はすでに高村光太郎との接触が始まっていたのであろう。研究所内での態度はそれを物語っていたかの様にとれたからである。/僕は長沼智恵子がどの位同研究所に籍を置いていたかは知らない。時々顔を見せていたかと思うと暫く来なかったり、僕も休んだりして年数は覚えてはいないが、印象だけは深く残っていた。/僕の智恵子に対する知識は以上の様なもので、何も持っていないと云う方が正しいだろう。言葉一つ交わした事もなし又年齢からも五六年の開きがあった。しかし光太郎と結婚したと言う事で印象が改まり又関心も深まった。そうした事で光太郎氏を訪ねようと思ったりしていたが遂に実現はしなかった。
  
 正確にいうなら、長沼智恵子と小島善太郎は6歳ちがいで、彼女が結婚した1914年(大正3)現在、長沼智恵子は28歳で小島善太郎は22歳だったはずだ。
 小島善太郎にいわせると、彼女はある意味で貴族的かつ高踏的な志向を備えており、画面には「土色」や「ヤニ色」などの色素をいっさい使わなかったところから、画法を深め精進をつづけるうちに、どこかでいき詰まり悩みぬいたのではないか……と、暗に想像している。同時に、夫の現代風(当時)な表現を傍らで見つめながら、「きれいさ」から抜けだせない焦燥感にとらわれたのではないか。
 長沼智恵子は、どちらかといえば夫の『智恵子抄』とともに、統合失調症を発症してからの「紙絵」づくりとその作品にスポットが当てられがちだが、日本女子大時代から洋画家をめざしていた彼女は、絵画になにを求め、なにを表現しようとしていたのだろうか。


 おそらく、病気の発症は芸術的な焦燥のみでなく、さまざまな要因が重なることで起きていると思うのだが、発症する40歳までの作品に、その苦しみの跡は残されていなかったのだろうか。でも、数多く描かれたであろう彼女の絵画作品は、夫によって処分されたものか、あるいは散逸してしまったものか、現在では目にする機会がほとんどない。

◆写真上:1913年(大正2)に制作された、長沼智恵子『樟(くすのき)』。
◆写真中上は、日本女子大学の正門と成瀬記念講堂。は、長沼智恵子が入居して通っていた日本女子大学泉山潜心寮の正門と寮舎の1棟。
◆写真中下は、女学校時代()と1914年(大正3)ごろの長沼智恵子()。は、谷中真島町1番地の太平洋画会研究所跡。は、現在の太平洋美術会研究所。
◆写真下は、1908年(明治41)ごろに描かれた長沼智恵子の石膏デッサン。は、制作年代が不詳の長沼智恵子『ひやしんす』。