下落合436番地に住んでいた日本画家&洋画家であり、下落合一帯のアトリエを設計してまわったとみられ建築家でもある夏目利政Click!が16歳のとき、自宅の2階には長沼智恵子Click!(のち高村智恵子)が下宿していた。といっても、下落合にあった彼のアトリエではなく、1909年(明治42)にいた本郷区駒込動坂町109番地の自邸でのことだ。
 いまだ中学生だった夏目利政は、日本画家・梶田半古の画塾に通っており、すでに14歳で文展に入選している。その後、夏目利政は東京美術学校の日本画科へと進学するが、当然、2階に住んでいた洋画家をめざす長沼智恵子とも、少なからぬ交流があったことは想像に難くない。日本画のみならず、彼が洋画をこころざす最初のきっかけに、ひとつ屋根の下に暮らしていた長沼智恵子の影響が大きかったのではなかろうか。
 長沼智恵子と目白・雑司ヶ谷界隈とのつながりは、学生時代も含めて非常に濃いものがある。ここでいう「目白」とは、現在のJR目白駅周辺のことではなく、小石川区(現・文京区)の目白台一帯Click!(おそらく本来の地名位置)のことだ。日本女子大学へ通っていた彼女は、同大学に近接した女子寮「自敬寮」で学生生活を送っている。そのころの智恵子の様子を、1年先輩にあたる平塚明(はる)=平塚らいてうの、『高村光太郎と智恵子』(筑摩書房/1959年)から引用してみよう。
  
 図画は女子大では自由科目でした。洋画の先生は、松井先生という中年の男の先生でしたが、智恵子さんはその先生について水彩画の勉強をしていました。桐の細長いスケッチ箱を撫で肩にかけて、学校裏の雑司ヶ谷方面にスケッチに出かけたりしていました。(中略) 書見に疲れた眼で窓の外をみると、人影の絶えて広々と見える運動場を、智恵子さんがただひとり、自転車を乗りまわしているのが実に自由で、たのしそうに見えました。自転車はこの人のお得意でしたから、当時の女子大運動会のよびものの一つだった自転車行進には必ず出ていました。
  
 智恵子に美術を教えていたのは、明治美術会(のち太平洋画会)の創設メンバーだった洋画家・松井昇のことだ。浅井忠や小山正太郎、柳源吉、長沼守敬らが1889年(明治22)に明治美術会を結成するが、吉田博Click!満谷国四郎Click!、中川八郎、丸山晩霞ら後進が続々と欧州留学から帰国すると、明治美術会は時勢の流れから解散して、ほどなく太平洋画会Click!が結成されることになる。
 長沼智恵子は、1907年(明治40)4月に日本女子大を卒業する以前から、おそらく松井昇の紹介があったのだろう、下谷区谷中真島町1番地にあった太平洋画会研究所Click!へと通っている。このとき、智恵子は日本女子大のOG会でつくる「桜楓会」が建てた、小石川区小日向台町1丁目14番地の「第一楓寮」に住んでいた。だが、1909年(明治42)に第一楓寮が閉鎖されると、本郷区駒込動坂町109番地の夏目邸の2階へと転居している。夏目利政は16歳の中学生だったが、智恵子は7つ年上の23歳になっていた。
 1907年(明治40)前後の太平洋画会研究所には、落合地域あるいは新宿エリアでお馴染みの美術家たちが、続々と姿を見せている。洋画をめざす長沼智恵子の周囲には、中村彝Click!中原悌二郎Click!をはじめ、鶴田吾郎Click!堀進二Click!大久保作次郎Click!渡辺與平Click!小島善太郎Click!、足立源一郎、川端龍子、岡田穀、荻原守衛Click!、戸張孤雁などの面々だ。智恵子の研究所での様子について、彼女とは肩を並べて同研究所で学んでいた渡辺與平の妻・渡辺ふみClick!(のち亀高文子Click!)の証言を、2004年(平成16)に蒼史社から出版された北川太一『画学生智恵子』所収の、亀高文子『わが心の自叙伝』(神戸新聞学芸部編)から孫引きしてみよう。
  
 こういう男性たちにまじって、ここでは、男女共学のハシリといえましょうか、私ともう二人の女性がいました。一人は女子美校で一緒だった埴原久和代さんで、もう一人は後に高村光太郎夫人となられた長沼智恵子さんです。(中略) 智恵子さんは、美しい、なよなよした女性で話す声も聞きとりにくいほどの控えめな感じの外見と、その仕事ぶりは、また反対に自由奔放で強い調子のものでした。男女同権にめざめていないそのころ、大勢の男性の中にはいって勉強することは、いろいろな困難を甘んじて受け、あるいは克服しつつの連続でした。とはいいましても、明治の質朴な画学生たちは、私たちにとって決して危険な異性ではありませんでした。ただ、いかつい、こわい存在だったのです。女にやさしくするのは男の恥というような虚勢からくる見せかけの不親切だったかも知れません。
  


 
 夏目利政は生粋の本郷っ子で、1893年(明治26)に駒込動坂町で生まれている。日本画には早熟で、14歳のとき第1回文展へ入選したことは先述したが、東京美術学校在学中の18歳のときにも、再び第5回文展に入選している。牙彫師Click!だった父親が早くに死んだため、母親とともに自邸の部屋や離れを下宿として人に貸していた。そこへ入居したのが、23歳の長沼智恵子だった。
 夏目利政は、文展に入選していたにもかかわらず、智恵子から作品の画面を徹底的に批判されていたようだ。前出の『画学生智恵子』収録の、1950年(昭和25)11月1日の新岩手日報に掲載された夏目利政の回顧録から孫引きしてみよう。
  
 その頃私は第一回文展に入選した。美術学校入学前のことなので私は皆からおだてられた。ところが智恵子さんから「子供のくせにしてこんなまとまった絵をかくことはちっとも真実を知らないからで、個性のない、だれでも書(ママ)ける絵だ」と頭から酷評された。これが私にとって自分の絵ということをまじめに考える大きな示唆となった。それからあの人のほんとうのものに心魂を打ちこんでスキもひまもない日常を見てたゞ驚嘆した。
  
 夏目利政が日本画家のみならず、洋画家もめざすようになったきっかけに長沼智恵子が大きく起立していたのは、当たらずといえども遠からずのような気がするのだ。こののち、夏目利政は駒込動坂町の自邸を整理・処分し、下落合436番地にアトリエを建てて転居してくる。また、弟の彫刻家・夏目貞良(亮)Click!も呼び寄せ、九条武子邸Click!の南隣り下落合793番地にアトリエを建設している。さらに、下落合804番地の鶴田吾郎アトリエClick!をはじめ、下落合に建設されたアトリエの多くは、彼の設計と思われるふしがあるのは、すでに何度か書いてきたとおりだ。
 さて、母校が近くて落ち着き安心するせいなのか、長沼智恵子は日本女子大学の近辺に住みたがるようだ。1911年(明治44)になると夏目邸の下宿を出て、同じく日本女子大を卒業した妹・セキとともに、高田村雑司ヶ谷719番地(現・豊島区南池袋3丁目)に小さな新築の借家を見つけて住みはじめている。智恵子が同地域を離れがたいのは、母校とその周辺に馴染みが深かったせいもあるのだろうが、周辺には美術家たちが多く住んでいたのも要因のひとつなのだろう。
 当時の雑司ヶ谷には、智恵子の親しい日本女子大の先輩だった橋本八重がいた。彼女は洋画家・柳敬助と結婚して、高田村雑司ヶ谷331番地に住んでいた。また、小石川区雑司ヶ谷91番地には、岸田劉生Click!たちとフュウザン会を結成した斎藤與里Click!のアトリエがあった。大正期に入ると、早々に二科会創設に奔走した津田青楓Click!は、日本女子大のすぐ東側にあたる小石川区高田老松町41番地におり、坂本繁二郎は高田村雑司ヶ谷36番地にアトリエをかまえていた。つまり、当時の先端をいく画家たちと交流できる交叉点が、明治末の雑司ヶ谷地域だったのだ。
 長沼智恵子が訪問した先には、津田青楓をはじめ中村彝、斎藤与里、熊谷守一Click!などのアトリエが記録されている。やがて、雑司ヶ谷に住んでいた洋画家たちのネットワークを通じて、高村光太郎と出逢うことになる。



 高田村雑司ヶ谷719番地の長沼智恵子アトリエを、1912年(明治45)6月に読売新聞の記者が訪問している。同年6月5日の同紙掲載の連載記事「新しい女(一七)」を、前出の『画学生智恵子』から少し長いが孫引きしてみよう。
  
 郊外の新屋 府下高田村雑司ヶ谷七百十九、鬼子母神境内の墓地を過って埃の白い街道を左へ郊外の閑かさを飽迄も吸った新築の家、夫は六畳と四畳半と丈の、小さくて明くて、サッパリとしてそれ自らが画室の様だ。こゝに妹と二人で住んでいる、室の一隅には露西亜更紗の三尺四方ばかりの上にプリミチブな泥人形やハリコ人形などが赤く青く白く黒く黄いろく散らかしてあり、床の間には古い印度瓶へ自分でエジプト風の図案を描き、それに挿した芍薬の花がもう萎れてゐる、その傍にはやゝ大きな額縁が二つ、自由な意匠の小さな壺が三つ四つ、窓の前の卓子にはガラス函入の絹毬が光り、その下の机には巻紙に何やら細かく書きかけてある、絵の具箱、カンバス、----このほかには箪笥もなく鏡台も見えない、こうした周囲を背景にして、素袷の襟を掻きあわせつゝ赤白の碁盤縞の布をかけたチャブ台の前に坐った二十四歳の、新しい女の芸術家を、まず想像して見たまえ(中略) ケチな芸術に非ず 「好きなのは、やはりゴオガンのです」話す時、その声は消えるように低くなる、「このごろ描きましたのは----」と立って壁によせかけた小さな板を裏返して「じきこの近くなのです」、見ると、木立の間から畠を越えて夕空が明るくのぞかれる、木の葉といい草の葉といい、女とは思われぬほど強く快く描いてある、ふとセザンヌの雨の画を思いだしたので、そのことをいうと「えゝセザンヌもほんとうにようございますわね」と子どもらしく口を開いて目をほそめた、好んで行くのは浅草の池の辺、あの活動写真の小舎などの毒毒しい色彩がたまらないそうな、けれども売らなければ食えないというのではない、そんなケチな芸術ではない
  
 文中には、「鬼子母神境内の墓地」というおかしな記述もあるが(鬼子母神堂北側の法明寺境内にある墓地という意味だろう)、おおよそアトリエの様子がわかる。
 長沼智恵子もまた、日本女子大の学生時代を含め、目白駅の東側に拡がる明治末から大正初期にかけての風景作品を、数多く描いていたにちがいない。その画面は、同じ時代をテキストで記録した海老澤了之介Click!の描写と、直接重なってくるだろう。このあと、智恵子は雑司ヶ谷719番地から、わずか北西に200mほどのところにある雑司ヶ谷711番地の借家へと転居している。



 高田村雑司ヶ谷719番地と同711番地は、ともに海老澤了之介Click!が住んだ雑司ヶ谷733番地のすぐ裏手(東側80mと北側50m)にあたる。だが、彼の自伝的著作『追憶』Click!には新進画家として、あるいは「新しい女」として新聞や雑誌にたびたび取り上げられ、のちに高村光太郎と結婚する長沼智恵子の記述がまったく見あたらない。ほとんど同じ町内の近隣同士なので、芸術家の存在にことさら敏感な彼が記録しないのはめずらしいことだ。海老澤了之介は、『青鞜』に集う「新しい女」たちが嫌いだったものだろうか。

◆写真上:雑司ヶ谷719番地(現・南池袋3丁目)にあった、長沼智恵子アトリエ跡の現状。実際には、写っている邸の裏側(西側)あたりに建っていたと思われる。
◆写真中上は、1917年(大正6)に行われた日本女子大学運動会の絵はがき。は、同大の運動場で自転車に乗る学生たち。下左は、2004年(平成16)に出版された北川太一『画学生智恵子』(蒼史社)。下右は、同大の雑司ヶ谷泉山潜心寮をめぐる築垣。古い大谷石の築垣上にコンクリート塀をつぎ足し、さらに有刺鉄線をめぐらす厳重さだ。
◆写真中下は、日本女子大学寮の正門プレート。は、太平洋画会研究所で石膏デッサンをする女子研究生。長沼智恵子か文中に登場する渡辺ふみ、または埴原久和代かもしれない。は、谷中真島町1番地にあった太平洋画会研究所跡の現状。
◆写真下は、1918年(大正7)作成の1/10,000地形図にみる雑司ヶ谷719番地と同711番地の界隈。は、1929年(昭和4)作成の市街地図にみる同じエリア。微調整レベルの地番変更はあるが、明治末から昭和初期まで大きなズレは見られない。は、雑司ヶ谷711番地の東通りに面したあたりに建っていた長沼智恵子アトリエの現状。