1939年(昭和14)に平塚運一Click!が描き、戦後の竹田助雄Click!による「落合新聞」Click!に掲載された『染物の流し洗い』と題するスケッチ作品だ。(冒頭写真) 落合地域やその周辺域には、大正時代からきれいな水質を利用した江戸友禅や江戸小紋、江戸藍染などの工房や工場Click!、会社などが市街地から数多く移転してきて、一大染め物産業エリアを形成していた。落合地域では、旧・神田上水(1966年より神田川)と妙正寺川の沿岸に染め物会社が集中している。
 こちらでも、田島橋の北詰めにあった三越呉服店(三越百貨店Click!)の染め物工場Click!をはじめ、松本竣介Click!が描いた同工場Click!や裏手の妙正寺川からスケッチした二葉苑Click!片山公一Click!が描いた妙正寺川の染め物工場街など、折りにふれてご紹介してきている。平塚運一の『染物の流し洗い』は、落合新聞によれば西武電鉄Click!の下落合駅のすぐ近くを描いたとされているので(おそらく平塚運一本人に確認しているのだろう)、描かれている川幅から見ても妙正寺川にまちがいないだろう。
 正面には小さな橋が架かり、流れの奥には丘の斜面に建てられたとみられる家々が描かれているので、川筋は左右どちらかにカーブしていると思われる。1935年(昭和10)前後からスタートした、落合地域における旧・神田上水と妙正寺川の直線整流化工事は、この画面が描かれた1939年(昭和14)当時はほぼ全域で終わっていたが、妙正寺川の大正橋下流の一部、二葉苑の裏手にあたる部分では、1944年(昭和19)現在でも工事が行われていた様子が、同年の空中写真でも確認できる。それは、松本竣介の素描『上落合風景』の記事でも触れたとおりだ。
 西武線・下落合駅の近くで、工場または銭湯の煙突が2本建ち、妙正寺川の右手には屋根に換気口の小屋根が載る、明らかに工場とみられる建屋が描かれている場所は、はたしてどこだろうか? 工場の手前は空き地となっており、休憩時間なのだろうかふたりの工員が一服しているように見える。川に架かる橋はかなり小さめであり、こちらでも何度かご紹介している滝沢橋Click!と同様に私設橋かもしれない。その小さな橋の下では、6~7人の職人たちによる染め物の水洗いが行われている。
 川の左手には、岸辺のギリギリまで塀が設置され、規模の大きなアパートか寮のような建物が描かれている。つまり、川の右手には川沿いにつづく道がありそうだが、川の左手には川沿いの道がなく、建物が川岸の間際まで迫って建てられているような環境だ。また、橋がある以上、少なくとも左手の大きな建物の向こう側には、必然的に道路があることになる。さらに、遠景の丘を観察すると、丘の連なりは右手へとつづいているように見えるので、妙正寺川の北側に連続する目白崖線なのだろう。そう考えれば、画面の右手が北で左手が南の方角になるだろう。



 以上のような諸条件を満たす描画ポイントは、1939年(昭和14)現在の下落合駅近辺では1ヶ所しか存在しない。平塚運一は、下落合3丁目1110番地(現・中落合1丁目)にあたる妙正寺川のコンクリート護岸あたりから、上流の小さな氷川橋の方角(西側)を向いて描いていることになる。平塚運一のすぐ左手には、川をはさんで西武線の線路が走り、すぐ背後には落合橋と下落合駅が見えていたはずだ。
 右手に見えている工場と煙突は、下落合3丁目1128番地の(有)東京染晒工場であり、同工場は奇跡的に空襲による延焼をまぬがれて、戦後も操業をつづけている。また、手前にある空き地は1936年(昭和11)の空中写真でも、1944~1945年(昭和19~20)の写真でも、さらには戦後の1947年(昭和22)の米軍写真Click!でも三角形の空地のままであり、ひょっとすると同工場の干し場に使われていたのかもしれない。もっとも、1944年(昭和19)から敗戦までの期間は、防火帯36号江戸川線Click!(=建物疎開Click!)として機能していたとみられるが、生産拠点は重要視されたのか工場の建屋は解体されず、空襲でも焼けずに戦後までそのまま残った。


 さて、妙正寺川に架かる氷川橋は、淀橋区から新宿区への資料に橋名が採取されておらず、もともとは滝沢橋と同様に私設橋だったのかもしれない。少なくとも、1966年(昭和41)の新宿区地図まで、上流の昭和橋と下流の落合橋にはさまれた小橋の名称は収録されていない。橋の左手は上落合だが、描かれた大きめな集合住宅は上落合1丁目279番地のアパート落合荘だ。同アパートは、右手に描かれた東京染晒工場よりもはるかに大きな建物で、1936年(昭和11)の空中写真を見ると大屋根が白く輝いて見える。おそらく、洋風で最新式のモダンアパートだったとみられるが、防火帯36号江戸川線の建物疎開にひっかかり、1945年(昭和20)に解体されたと思われる。
 さらに、落合荘の向こう側(西側)に見えている煙突は、わたしは当初銭湯のものだと思っていたのだが、どうやら工場か焼却炉の煙突らしい。ただし、なにやら煙突に文字が描かれているので、工場ないしは会社の可能性が高いだろうか。このスケッチが描かれる前年、1938年(昭和13)作成の「火保図」を参照すると、煙突のある大きめな家は「高藤」(上落合1丁目280番地)という名前が採録されている。敷地内には、コンクリートの小規模な建屋と煙突が記録されているので、ひょっとすると個人名を冠した染め物に関連する工房、ないしは関連会社のひとつなのかもしれない。



 煙突のある高藤邸から、西へ2軒隣りの上落合1丁目308番地にはアパート静怡寮Click!があり、晩年の辻潤Click!が住んでいた。当時は病気がちだった辻潤も、この2本の煙突が見える風景を眺めながら暮らしていたのだろう。平塚運一が『染物の流し洗い』を描いた5年後、1944年(昭和19)11月に辻潤はここで死去している。

◆写真上:1939年(昭和14)に描かれた、平塚運一のスケッチ『染物の流し洗い』。
◆写真中上は、1936年(昭和11)の空中写真にみる東京染晒工場とその周辺。は、『染物の流し洗い』の前年1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる同所。は、空襲直前の1945年(昭和20)4月2日に米軍偵察機から撮影された同界隈。
◆写真中下は、1938年(昭和13)に撮影された妙正寺川の水洗い作業。(「おちあいよろず写真館」より) は、戦後の1947年(昭和22)に撮影された同所。
◆写真下は、平塚運一の描画ポイントあたりから氷川橋を眺めた現状。は、東京染晒工場跡の現状。は、もともとは私設橋とみられる氷川橋。