昨年、雑司ヶ谷の異人館Click!に住まわれていた正木隆様より、1955~56年(昭和30~31)ごろに撮影された邸の写真をお送りいただいた。明治末近くに竣工した同邸は、明治政府の雇用外国人として1902年(明治35)に来日し、東京高等商業学校(現・一橋大学)や学習院でドイツ語教師をしていたドイツ人のリヒャルト・ハイゼが建てたものだ。だから、当初より「異人館」と呼ばれていたのだろう。
 陸地測量部Click!が作成した、明治末の1/10,000地形図を参照すると、弦巻川Click!に沿って南北に形成された河岸段丘の斜面には田畑が拡がり、北岸にある宝城寺や清立院、南岸にある大鳥社や本納寺、そして雑司ヶ谷鬼子母神の森が点在するゆるやかなU字型の谷間から眺めた高台に、ポツンと大きな西洋館が建っているような風情だった。異人館の北と東側には、東京市の雑司ヶ谷墓地が造成されていて、1910年(明治43)時点の地図でも異人館の周囲には、住宅はただの1棟も存在しなかった。
 やがて、雑司ヶ谷の宅地化が進むにつれ、弦巻川両岸の田畑は耕地整理が行われ、大正末から昭和初期にかけては、なにもない原っぱが拡がるような風景に変わっていった。そのころ、周辺に住む子どもたちの遊び場はこの原っぱであり、ことに正月などには凧揚げには格好の広い空き地となっていた。誰が名づけるともなく、この広大な原っぱは「ハイゼの原」と呼ばれるようになっていた。
 当時、ハイゼの原で遊んだ子どもたちの様子を、1992年(平成4)に弘隆社から出版された一艸子後藤富郎『雑司が谷と私』から引用してみよう。
  
 文字焼は現代のお好焼の元祖ともいうか、うどん粉を砂糖蜜に溶かし鉄板の上で焼き、熱いのをふきふき食べる。寒い正月には格好な食べものであった。/風のない日は羽根をつく女の子が喜び、風が出れば男の子が喜ぶ。風が出ると男の子は凧上げの場所に行く。場所はおおかた大鳥神社に近い異人屋敷につづく傾斜の原っぱである。
  
 また、1977年(昭和52)に新小説社から出版された中村省三『雑司ヶ谷界隈』にも、四季を通じてハイゼの原で遊ぶ子どもたちの様子が記録されている。



  
 この異人館の東側の斜面が、宝城寺の墓場まで宏大な空地で、私達はこの空地を「ハイゼの原」と呼んでは天気さえよければ、自分達の運動場として使わせて貰ったものである。春から秋にかけては適当な長さの草が生い茂っていて、相撲をとって転がっても怪我もしなかったし、また草の斜面を下までゴロゴロと転がり落ちてあそんだりしたものである。毎年冬になって雪が積ると、此の斜面を利用して、スキーの真似ごとをしてあそんだこともあった。仲間の悪の中には隣接の宝城寺の墓場へ行き、卒塔婆を引き抜いてきて足の下へはき、スキーのつもりですべった者もいたが、よく仏罰が当らなかったものだ。/私がはじめて秋田雨雀さんと会ったのも、この「ハイゼの原」であった。
  
 ハイゼの原では、ときどき時代劇の映画ロケが行われたり、サーカスの小屋掛けがあったりして、周辺に住む子どもたちを楽しませていたようだ。
 リヒャルト・ハイゼは、大正期に入ると日本が第一次世界大戦でドイツに宣戦布告したため、敵性外国人として日本政府による全財産没収の危機にも遭遇したが、1924年(大正13)に帰国するまで日本に住みつづけている。雑司ヶ谷異人館の周辺では、ハイゼ一家が帰国して住民が日本人に入れ替わっても、相変わらず「異人館」や「ハイゼの原」の名称が活きつづけていたのがわかる。
 雑司ヶ谷を流れる弦巻川の周辺に住んだ人々に、強烈な印象を残している雑司ヶ谷異人館だが、昭和期に入ると船舶会社の重役である船津邸ないしは松平邸になり、戦後は広い邸内にはフロアごとに複数の家族が入居する、いわゆるマンション形式の使われ方をしていたようで、以前に書いた雑司ヶ谷異人館の記事のコメント欄には、元住民の方々の貴重な証言が寄せられている。このような意匠の明治建築だと、当時の和館よりも天井が相当高く、冬などはかなり寒かったのではないだろうか。
 建築されてから、それほど時間のたっていない雑司ヶ谷異人館の意匠について、詳しく記録した文章が残っている。『雑司ヶ谷界隈』から、再び引用してみよう。



  
 かつて私の子供の時分、この建物は雑司ヶ谷の異人館として名物であった。当時この異人館の周囲一帯、南側の低地も東側の高地も人家らしいものは一軒もなく、開通したばかりの王子電車の窓からも、この異人館はハッキリと望見できたはずである。私もうろ覚えなので断言はできないが、明治時代日本に招かれて来た独乙人(ママ)のハイゼという鉄道技師(ママ)か何かが住んでいた邸宅であったと聞かされたことがある。敷地は丘の上から下まで何千坪かあり、南斜面を利用した宏壮なものであった。南面下の道路には当時としては珍しい鉄製の門扉が常時閉じられたままであり、南斜面の植込みの広い庭の奥、丘の上に南半分が洋館、北側半分が和風という、家そのものもひどく広い大きなものだった。洋館の二階にはベランダがつき出ていて、あそこからなら新宿のガスタンクや、夜になればネオンの赤い灯や青い灯もよく見えるだろうな----と羨しく眺めたものである。しかし和風の造りの方はいつも雨戸がたてたままで、洋館の方もかつて人の姿を見かけたことはなかったように思う。
  
 文中に登場する王子電車は、現在の都電荒川線のことだ。当時は、雑司ヶ谷電停のすぐ南側に王子電車の車庫が設置されていた。
 1979年(昭和54)に解体といえば、わたしが学生時代にはまだそのまま建っていたわけで、都電荒川線には何度か乗車しているにもかかわらず、雑司ヶ谷異人館の存在には気づかなかったのが残念だ。もっとも、そのころは周囲に家々が建てこんでいて、大きな西洋館も見えにくくなっていたのだろう。
 解体直前の異人館は、さすがに傷みが激しく、下見板張りの外壁があちこちで破れ、窓ガラスも随所が割れているような状態だったらしい。1977年(昭和52)の時点では、「今は見るかげもない木造の異様な建物」(『雑司ヶ谷界隈』)と書かれているので、長い間メンテナンスをしておらずお化け屋敷のようなたたずまいを見せていたようだ。当時の様子は、著者の中村省三が写真に収めている。



 さて、帰国したリヒャルト・ハイゼだが、1937年(昭和12)には再び日本の土を踏んでいる。そして、いまでは会津の白虎隊が眠る飯盛山に葬られているのだが、なぜ薩長政府に抵抗した会津にハイゼ家の墓所があるのか、それはまた、もうひとつ別の物語……。

◆写真上:かつて、ハイゼの原から仰ぎ見た雑司ヶ谷異人館(リヒャルト・ハイゼ邸)。
◆写真中上は、1918年(大正7)の1/10,000地形図にみる雑司ヶ谷異人館。この時期になっても、ハイゼの原には住宅が建っていない。は、戦前に大鳥社側から弦巻川が流れるハイゼの原を撮影したもので、中央を左右に横切るのは王子電車の軌道。異人館は、左手枠外の高台に聳えていたはずだ。は、1947年(昭和22)の空中写真にみる異人館で、濃い屋敷林に囲まれかろうじて戦災をまぬがれているのがわかる。
◆写真中下は、都電荒川線から見た1977年(昭和52)ごろの雑司ヶ谷異人館。は、西側の都電側から眺めた異人館が建っていた丘上の現状。は、1975年(昭和50)の空中写真にみる雑司ヶ谷異人館(現・南池袋第二公園)。
◆写真下は、1933年(昭和8)に撮影された暗渠工事中の弦巻川が流れるハイゼの原。正面に見えているのは宝城寺で、画面の左手枠外の丘上に雑司ヶ谷異人館が建っている。は、解体が間近な1977年(昭和52)撮影の異人館外壁と窓。