1923年(大正12)9月1日に起きた関東大震災Click!では、混乱のどさくさにまぎれてアナキストや社会主義者、労働組合の活動家が、つまり政府に反対する思想をもった人々が、憲兵隊や警察の手で次々と虐殺されている。甘粕事件(大杉事件)や亀戸事件などが、その代表的なものだが、震災後に出版されたグラフ誌や写真集Click!の中で、これらの事件に直面し大正デモクラシーへの強い危機感をおぼえ、いち早く大々的に取り上げているのが小石川区大塚仲町にあった歴史写真会だ。同会が、1923年(大正12)11月1日に出版した『歴史写真/関東大震大火記念号』では、甘粕事件(大杉事件)をめずらしい写真とともに報道している。
 なぜ歴史写真会が、甘粕事件をことさら重大視したのかといえば、アナキストの大杉栄Click!をはじめ社会主義者の堺利彦Click!、民本主義者の吉野作造Click!や大山郁夫らを殺害する目的をもった憲兵隊が、思想的な対立軸(=主敵)には直接規定していない妻の伊藤野枝と、無関係な甥の橘宗一(7歳)までを、のちの事件発覚や証言を怖れて「ついでに」殺害し、行方不明を装うために姑息にも死体を隠ぺいしているからだ。
 つまり、思想的な対立者と規定して「敵」の主体を意識的に「抹殺」するのではなく、無関係な人間をいともたやすく虐殺する、単なる愚劣な人殺しにすぎないと位置づけたからだろう。そこには、政治的理念による対立軸がすでにブレにブレて、思想的な荒廃や腐敗が進んだ、もはや一般の刑事事件と同レベルの単なる感情的な人殺しの腐臭のみが漂う、甘粕正彦とその部下たちの姿を見たからだ。
 日本史上で、初めて思想的な対立をもっともらしく「理由」に掲げながら、まったく関係のない市民を次々と虐殺していったのは、「尊王攘夷」思想のもとで幕末の大江戸Click!の市民の間に世情不安や混乱(パニック)を起こそうと、示現流Click!による辻斬りや火付け盗賊を繰り返していた、薩摩藩の益満休之助Click!と数百名(一説では500名を組織化した)にのぼるといわれる薩摩の人殺し集団だ。特に、市中で暮らす女性や子どもたちを辻斬りで無差別に虐殺したり、街角の商家へ押し入り強盗や殺戮のあげく火付けをしてまわったのは、ちょうどアルカイダやIS(イスラム国)による市民虐殺、あるいはオウム真理教による地下鉄サリン事件とまったく同レベルの手口であり、曽々祖父の時代からわたしの世代までいまだに許容できない、この街の歴史のひとつだ。
 「尊王攘夷」派を徹底して弾圧した大老・井伊直弼が、登城途中の桜田門外Click!で水戸浪士たちなどに襲われ暗殺されたのは、その思想的な対立の背景から彼が“首謀者”と主体の規定がなされているので、まだなんとか“理解”することができる。赤穂浪士が、幕府の法治下における幕閣裁定に不満をおぼえ、吉良邸へ討ち入り吉良義央Click!と抵抗する家臣たちを殺害したのも、心情的にはかろうじてだが“理解”できる。
 だが、アルカイダが直接なんの関係もない市民が乗る飛行機をジャックし、ワールドトレードセンターへ突っこんでジェノサイド(機内にもビル内にも外国人や、米国のアフガニスタンへの軍事介入に反対していた米国市民たちもいただろう)を行なったのと同レベルで、あるいはオウム真理教が地下鉄で行った愚劣な所業と同列に、薩摩藩が敵対する主体や組織をまったく規定しえず、ただ単に混乱を引き起こすためだけを目的とし、「武士道」とも無縁な思想的荒廃・腐敗による大江戸市民への無差別虐殺は、まったく理解することも許容することもできない。特に、辻斬りでねらわれ殺されたのが、ほとんど無抵抗な市井の女性や子どもたちだったことが、よけいに勘弁ならないのだ。


 
 おそらく、歴史写真会の編集部にも甘粕事件(大杉事件)の相貌に、幕末の薩摩と同様の思想的腐臭を強くかぎとった人物がいたのだろう。以下、同誌から引用してみよう。
  
 無政府主義者の一巨頭大杉栄は大正十二年九月十六日内縁の妻伊藤野枝と共に神奈川鶴見在の実弟を訪問し実妹の長男橘宗一(七ツ)を伴ひ其の夕方東京市外淀橋町柏木なる自宅に立帰らんとする途中、予て大杉の主義と言動とを憎悪し邦家の為め是を葬り去らんと企てゐたる麹町憲兵分隊長大尉甘粕正彦等の為め三人共麹町区大手町憲兵司令部に検束せられ、その夜八時半頃司令部応接室に於て大杉は甘粕大尉の為め柔道の手を以て突如咽喉部を絞められて悶死し続いて午後九時二十分頃妻野枝は東京憲兵隊隊長室に於て同大尉の為めに絞殺せられ、同時に少年宗一は鴨志田憲兵上等兵等に依て是又絞殺され三人の屍骸は司令部構内の古井戸に投げ込まれた。事件発覚と共に甘粕大尉等は第一師団の軍法会議公判に付せられ審判せらるゝことになつた。
  
 このあと、3人の遺体を裸にして菰包みにし、司令部の敷地内にあった古井戸へ夜陰にまぎれて投げこみ、上から馬糞やレンガを投げ入れて埋め立て、あたかも震災で崩れたように見せかける、巧妙な死体遺棄の組織的な隠ぺい工作を行っている。冒頭の写真は、死体が隠されていた井戸を写したもので、中央部の崩れた小屋根とともにレンガが積み上げられている位置が、3人が投げこまれた古井戸だ。



 つづけて、『歴史写真/関東大震大火記念号』から引用してみよう。
  
 九月十六日の夜甘粕憲兵大尉が大杉栄及び其妻伊藤野枝を絞殺するや少年橘宗一の屍体と共に三個の遺体を真裸にして菰包みとなし部下の森曹長、鴨志田、本多両上等兵に手伝はせて其夜深更是を司令部構内の古井戸に投入し、九月一日の震災に依り崩潰した附近建物の煉瓦其他を集めて井戸を埋め巧みに是を隠蔽したのである。
  
 古井戸から掘り出された3人の遺体は、検視のあとそれぞれ名前を墨書きした棺に入れられ、9月25日に上落合の落合火葬場Click!に運ばれて荼毘にふされた。
 そして、10月8日から青山の第一師団軍法会議新館法廷で第1回公判が開かれ、甘粕正彦は取り調べの際の供述をひるがえし、橘宗一の殺害をめぐる責任を否定(つまり部下が勝手に忖度して殺したことに)しているが、3名の殺害に関する上層部からの指示の有無については、ついに審議されることはなかった。12月8日の判決では、殺人主犯の甘粕に懲役10年(実際は3年弱で出所)、殺人幇助の森慶次郎に懲役3年、「命令に従っただけ」の鴨志田安五郎と本多重雄らは無罪をいいわたされている。
 甘粕事件(大杉事件)をめぐり、欧米諸国が同事件へ関心を寄せていたのかがわかる外交文書が、国立公文書館に残されている。各国在任の大使や公使、領事などへ同事件についての問い合わせが多かったらしく、外務省へ詳細を知らせるよう問い合わせが相次いでいたようだ。外務省では、事件発生の経緯から甘粕正彦らが取り調べに対して供述した内容、軍法会議での審議の様子などをレポートにして各国へ打電している。つまり、同事件は海外から日本というアジアの「新興国家」を評価する、ひとつのバロメーターとして作用していた様子がうかがえるのだ。
 甘粕事件(大杉事件)に関して、婦人之友社Click!が行った洋画家・長沼智恵子Click!への取材記録が残っている。「他人の生命に手をかけるなんて、何という醜悪な考でせう。暴力こそ臆病の変形です」と、その答えは憤怒に満ちていた。


 『歴史写真/関東大震大火記念号』は、1923年(大正12)11月1日に発行されているにもかかわらず、9月3日から5日にかけて起きた亀戸事件に関する写真報道がない。亀戸警察署に連行された社会主義者や労働組合の活動家ら計10名が、同署内あるいは荒川放水路で次々と刺殺あるいは斬殺された、より規模の大きな虐殺だが、事件の隠ぺいがつづきようやく発覚したのが10月10日と遅く、グラフ誌の編集に間に合わなかったのかもしれない。同事件は、関東大震災のどさくさにまぎれ亀戸警察署や習志野騎兵第13連隊の殺人犯たちは、追及されることなく不問にふされた。
                                <つづく>

◆写真上:3人が裸で投げこまれていた、遺体発掘直後の憲兵隊司令部の古井戸。
◆写真中上は、1923年(大正12)7月28日に銀座の「カフェ・パウリスタ」Click!で開かれた渡仏していた大杉栄の帰朝歓迎会で、手前右が大杉栄で左が伊藤野枝。は、同年8月に労働問題の講演会に出席した大杉栄(前列右)。下左は、同年1月の渡仏直前とみられる大杉栄。下右は、同年撮影の伊藤野枝と大杉栄の娘・魔子。
◆写真中下は、同年10月8日に開かれた軍法会議公判の様子。被告席に立つのは、甘粕正彦(手前)と森慶次郎(奥)。は、外務省から欧米各国の大使や公使、領事あてに打電された甘粕事件の経緯を報告するレポート電文の一部。
◆写真下は、同年9月25日に上落合の落合火葬場へ到着した遺体。杉材の棺には、墨書きで「宗ちやん」「栄」「野枝さん」と書かれている。は、左から右へ殺害された大杉栄、伊藤野枝、橘宗一の3人。最後の写真4点は、いずれも東京朝日新聞より。