東京各地を往来するには、川や運河や外濠・内濠をまたぐ「橋」の存在は、欠かせない重要な交通のポイントClick!だった。もしも、その橋が崩壊すれば、あるいは火災で焼失すれば、逃げ場をなくしてしまう人々が大量に発生することになる。1657年(明暦3)の明暦大火(振袖火事)Click!では、大川(隅田川)に橋がなく大勢の人々が追いつめられて焼死したため、1659年(万治2年)に大橋(両国橋)Click!が架けられ、江戸の各地に火除け地としての広小路Click!が造られたのは有名なエピソードだ。そして、関東大震災Click!でも橋が崩落あるいは焼失して、多くの死傷者を出している。
 大震災の直後、次々と出版された写真集やグラフ誌Click!には、大火災で焼失・崩壊した橋や、奇跡的に炎上をまぬがれた橋が紹介されている。最新の鉄筋構造と、昔ながらの旧態然とした木造の橋とを問わず、大火流Click!に巻きこまれた橋はことごとく焼失、または崩落しているのが目につく。地震の揺れと大火災から、かろうじて奇跡的に大きな被害をまぬがれた、大川(隅田川)に架かる市街地のおもな橋は、大橋(両国橋)Click!とその下流に架かる新大橋のふたつのみだった。明治期に花火見物の観客が押しかけ、その圧力で欄干が崩落して大きな事故を引き起こした大橋(両国橋)Click!だったが、関東大震災では避難する多くの罹災者の生命を救っている。
 写真集やグラフ誌に取り上げられている橋は、吾妻橋をはじめ、厩橋、相生橋、永代橋、神田橋、今川橋などだが、これらは完全に焼失あるいは崩落して大量の犠牲者を出した橋だ。中でも1807年(文化4)の江戸後期に、深川八幡祭に集まる人々を乗せて大規模な崩落事故を起こした永代橋Click!が、再び関東大震災で全焼・崩落して多くの犠牲者を出している。深川(東岸)から大火災に追われて避難する人々と、新川(西岸)から同様に避難する人々とが永代橋の上で衝突し、身動きがとれなくなった群衆を乗せたまま、橋が全焼・崩落してしまったのだ。
 当時の様子を、かろうじて生き残った人物の証言から聞いてみよう。1923年(大正12) 10月1日に大日本雄弁会講談社から発行された、『大正大震災大火災』に掲載されている「死灰の都をめぐる」のレポートから引用してみる。
  
 深川は、午後三時頃には一面の火の海でした。独身者の私は、どちらかと云へば呑気に、そちこち逃げ廻つて居ましたが、日の暮れ合ひには、何うにもならなくなつたので、人の群れに押され押されて、永代橋までやつて来ました。あれから、橋を渡つて日本橋か京橋の方面へ逃げようといふのでした。ところが大変です、逃げようと思つた対岸がまた一面の火で、あちらから逆に、深川へ這入つて来ようといふのです。何の事はない、幾万かの人間が、猛火の挟み討ちを喰つた形です。/私は、橋の中頃に居ましたが、身動きもならぬ始末、女子供は潰されさうで、もう悲鳴をあげて居りました。其の中に遠慮の無い火は、ぢりぢりと迫つて来ました。岸近くに居た者は、何うも斯うも熱くてならず、人を押しのけて中頃へ来ようと、命がけで押し合ふのです。其の中、悲鳴が聞えなくなつたと思ふと、片ッ端から倒れて行くのです。それが五十百と、見る見る殖えて行き、恐ろしいつたらありません。
  



 永代橋に限らず、焼失・崩落した市街地の橋では、どこでも似たような情景が繰り広げられていた。ある地域と地域とを結ぶ橋上で、避難者同士がぶつかり合い身動きがとれなくなって、大量の犠牲者を生む現象だ。関東大震災から22年後、東京大空襲Click!では大火災に追われて浅草(西岸)から避難する人々と、向島(東岸)から避難する人々とが言問橋Click!の上で衝突し、同じ悲劇が繰り返されている。
 現在では、橋上の道路幅が広くなり、人もクルマも通行しやすくなった半面、ガソリンを積んだ自動車が渋滞したり、あるいは震災時の避難から乗り捨てられたままだったりすると、阪神淡路大震災や東日本大震災での事例がしめすように、次々とクルマのガソリンタンクに引火して爆発を繰り返し、関東大震災や東京大空襲のときよりもはるかに危険な状況を招来するかもしれない。
 大きな川の存在で、大火災の延焼がストップするはずが、橋上に渋列するクルマのガソリンタンクに次々と引火して、火災が発生していない地域までが延焼する危険性があるからだ。橋上に駐停車するクルマが、文字どおり導火線の役割りを果たす怖れが多分にある。上掲のレポート「死灰の都をめぐる」から、つづけて引用してみよう。
  
 やがて、橋の中頃に居た私でさへ、熱くてならなくなつたので、折柄修繕中で、足場を組んであつたのを幸ひと、それを伝はつて、ズルズルと川へ落ちて行き、退き潮で、水が浅かつたのを幸ひ、少し下の、とある杭に辿りついて、それにつかまり、首だけ川から出してふるへて居ました。/と、何うでせう、今し方まで、私の居たあたりの橋板に、いつの間にか火がつき、燃え出したではありませんか。川へ飛び込みたいにも飛び込めず、もがいてゐた女や子供、老人などは、声がしなくなつたかと思ふと、バタバタ倒れ、其の儘息が絶えるのです。八九時頃でせう。到頭橋は焼け落ちました。それ迄に川へ落ちた人の数つたら、いや、何とも云へない凄じい光景でした。/私は到頭翌朝まで、かうして川の中に居り、川一杯の死骸と、溺るゝ苦しみに、何でも構はず、しがみつく人々の断末魔のむごたらしさを見て居ましたが、今になつて考へると、命の助かつたのが、我ながら、不思議でなりません。
  



 同じことが、現在では埋め立てられ道路になってしまったが、日本橋川から箱崎川、そして隅田川へと注ぐ竜閑川に架かっていた今川橋でも起きている。今川橋は完全に焼失・崩落し、震災後にはほとんどなにも残ってはいなかった。日本橋川の神田橋も焼失・崩壊したが、ここでは川面に停泊していた達磨舟にまで火が燃え移り、川面へ避難していた人々を焼き殺した。
 そのほか、吾妻橋や厩橋でも永代橋と同様のことが起きて、大量の焼死者と溺死者を出している。橋の木造部分が全焼し、火災が収まったあとには鉄骨の残骸しか残っていなかった。深川と月島を結ぶ相生橋は、橋全体が炎上してほどなく焼け落ち、橋上で焼死した人々も多かったが、その後、月島にいて逃げ道を絶たれた人々が大量に焼死している。延焼をまぬがれた佃島方面に逃げた人々は助かったが、反対側(南側)へ逃げた人々は迫る火災に刻々と追いつめられ、その多くが命を落とした。
 震災後、陸軍の工兵隊が焼け落ちた橋の応急修理をしているが、木橋はもちろん、大火流で罹災した鉄橋も、焼け残った鉄骨部分の傷みが激しく、ほぼすべての橋の架け替え工事が必要だった。現在、東京の(城)下町Click!に見る橋のほとんどは、このときの新築あるいは耐火耐震のために大規模な補修工事が行われたあとの姿だ。


 ほぼすべての橋が、石造りや鉄筋コンクリート製になった現在、大火災が起きても「橋は焼け落ちない」と思っている方が多いと思うが、大正時代にはほとんど問題にならなかったクルマの存在が、新たな脅威として大きく浮上している。震災時の条例にもとづき、大量のクルマが橋上で渋滞したまま、ドライバーの徒歩避難で放置された場合(東日本大震災では、事実として東京各地での橋上渋滞が現実化している)、ガソリンタンクが並ぶ橋は再び炎上して、人々の避難を妨げ生命を脅かすのではないか。
                                  <了>

◆写真上:全焼した実家のある日本橋米沢町側から眺めた、焼け残った大正期の大橋(両国橋)。橋自体は焼失しなかったが、両側に設置された歩道橋は崩落した。
◆写真中上は、炎上ののちに崩壊して大量の死者を出した永代橋。は、跡形もなく崩壊した竜閑川の今川橋。は、全焼し人々は応急の通路をわたる厩橋。
◆写真中下は、工兵隊による応急工事が進む全焼した吾妻橋。左手に見えているのは、多くの死傷者を出し壊滅したサッポロ麦酒工場。は、炎上・崩落したあとに応急の板がわたされた日本橋川の神田橋。は、月島の悲劇を生む原因となった相生橋の壊滅。佃島の一画を除き、石川島と月島の市街は全滅した。
◆写真下は、新大橋とともに焼け残った大橋(両国橋)。両側の歩道が、崩落している様子がわかる。は、簡易舗装された道路を走る地割れ。あちこちの道路で亀裂が入り、消防車の出動はもちろん市電や乗合自動車の運行も妨げた。