先日、神田神保町の「いのは画廊」に寄ったら、画廊主が1枚の作品を見せてくれた。わたしが、落合地域とその周辺域の風景画に興味をもっているのをよくご存じなので、「下落合って、昔は淀橋区だったよね」と作品を出してきてくれたのだ。板に描かれた大正期の作品名は、そのものズバリ『淀橋風景』で、モチーフは新宿駅西口にあった淀橋浄水場Click!の淀橋浄水工場機関室に付属する節炭機室だ。描いたのは、雑司ヶ谷や西大久保に住んでいた正宗得三郎Click!だった。
 より正確にいうと、レンガ造りの淀橋浄水工場の喞筒室(しょくとうしつ)背後にある機関室+節炭機室と、機関室の排煙をする巨大な煙突を描いたものだ。光線の具合から見て、ふたつある機関室と煙突のうち南側の機関室の一部と煙突の下部を描いていると思われる。レンガ造りだった同工場の煙突は、関東大震災Click!の揺れでタテに大きなひび割れが何本も発生し、震災後は工場自体の建屋も含め全体が補修されているが、『淀橋風景』に描かれた浄水場の機関室は震災前の様子をとらえている。
 淀橋浄水場が通水を開始したのは、1898年(明治31)12月からだが、淀橋浄水工場の機関室と煙突が竣工したのは操業ギリギリの時期だった。機関室の建設について、1966年(昭和41)に東京都水道局から出版された『淀橋浄水場史』(非売品)から引用してみよう。
  
 (淀橋浄水工場の)建物は3区分され、ポンプ室は建坪215坪余、汽罐室は321坪余、節炭機室は2室あり、各室建坪61坪余で、基礎工事はすべて杭打地形とした。ポンプ吸水井はポンプ室床下に煉瓦造、内法巾8尺7分5分、長114尺、深さ24尺、水深15尺5寸とし、上水池から径1,200mm鉄管で導水し、各ポンプごとに内径800mm鉄管で送水し、各送水管は室外で合して1,200mmの鉄管1条となり、市内高地へ送水される。/機関室の設計は明治27年中に調製したが、その後、設計変更があり、28年8月詳細図の調製にかかった。また用材搬入、基礎根掘工事に着手した。この掘さくは、出水と降雨などで山崩れがあり、揚水機破損もあって、工事を一時中止したが、その後も冬の寒気で煉瓦工事が休止したり、翌年9月の多摩川出水では砂利、砂の供給が欠乏して工事中止があり、そのほか31年には煉瓦供給を請負った東京集治監の手配が悪くて煉瓦不足で休業したりの困難のすえ、31年中ほぼしゅん工し、翌年8月に全部を完了した。(カッコ内引用者註)
  
 同書の記述によれば、工事は遅れに遅れて通水を開始したあとも、淀橋浄水工場自体はいまだ建設中だったことがわかる。通水から9か月後の、1899年(明治32)8月にようやく竣工して全機関の稼働がスタートしている。
 かなり細かく描きこまれた『淀橋風景』は、浄水工場の機関室へ引きこまれている高圧電線までが1本1本ていねいに描かれているが、絵の具はかなり厚めに塗られ、レンガ造りのどっしりとした建物の質感がよく表現されている。手前の草原が枯れているように見えるので、晩秋から冬にかけての風景だろうか。奥に描かれた、空を二分する巨大なレンガの煙突がひときわ目を惹くが、この煙突工事も事故が多発して竣工が遅延している。同書より、再び引用してみよう。




  
 煙突は煉瓦造り2基で各1基は気罐3組(6個)に対応して使用するもので、用法は通常は2組(4個)ずつを輪転使用することにし、掃除と臨時修繕の余地をとった。煙突基礎は地盤上に直ちにコンクリートで築造し、厚さ3尺、直径43尺の8角形で、基礎の最下部は地盤以下15尺である。煙突は2基併用で煙道を接続し、なお中間に阻通扉を設け単用もできるようにした。高さは地盤上120尺、地面線では外径16尺、厚さ煉瓦4枚、頂上は内径6尺5寸、厚さ煉瓦1枚半、底より高さ20尺までは内部に耐火煉瓦を使用した。煙道の内部は高さ7尺、幅4尺5寸とし、煉瓦で築造して内側には耐火煉瓦を使用した。(中略) これら築造工事の主要材料は別に購入し、工事は直営で施工した。基礎工事は明治29年5月に始め、煙突工事は同年12月に開始したが、途中で30年9月8日の暴風雨があり、煙突の足場崩壊などの事故があったりした。
  
 淀橋浄水工場の機関室背後から突き出た、高さが37m(121尺6寸)前後の巨大な煙突は、淀橋地域はおろか高い建築の少ない当時は、東京市内のあちこちからよく望見できたのではないだろうか。この淀橋浄水工場の斜向かい、青梅街道をへだてた東北東120mほどのところ、旧・柏木成子北町100番地界隈(のち淀橋町柏木成子100番地界隈)で育ったのが洋画家・小島善太郎Click!だった。レンガ造りの大きな淀橋浄水工場と煙突は、小島善太郎が淀橋小学校へ入学したばかりのころ、6歳のときに竣工している。



 『淀橋風景』は、正宗得三郎Click!が明治末に暮らしていた高田村(大字)雑司ヶ谷(字)中原730番地の海老澤了之介Click!邸を出て、豊多摩郡大久保町西大久保207番地にアトリエをかまえた大正前半期ごろの作品だとみられる。描かれた板の裏には、「正宗得三郎 淀橋風景」と署名と画題が墨で書かれており、墨蹟はかすれてかなり古いものだ。
 おそらく、正宗得三郎は西大久保のアトリエを出ると西へ向かい、道路の左手に大久保病院Click!の病棟(現・新宿ハローワーク+大久保公園)を見ながら、山手線の線路のほうへ歩いていった。山手線の手前で、線路と平行に敷設された道路(現・西武新宿駅前通り)を南へ一気に下ると、淀橋町(字)五十人町と(字)矢場の間にある山手線の小さなガード(現・新宿大ガード)をくぐり西へ向かって少し歩けば、青梅街道(現・旧青梅街道)が貫通し淀橋浄水場の正門がある五叉路(現・新都心歩道橋下交叉点)にたどりつく。西大久保のアトリエから淀橋浄水工場まで、およそ1kmとちょっとの道のりだ。
 正宗得三郎は、淀橋浄水場の正門を入ると場内引き込み線の線路を横断し、浄水工場の南側にある庭園に入りこんだ。そして、庭園に掘られた小さな池や引き込み線の分岐線に背を向けてイーゼルをたてると、レンガ造りの工場建屋から西へのびた機関室に付属する、3つの特徴的な窓がうがたれた節炭機室の角と巨大な煙突をモチーフに、持参した板へ絵の具を置きはじめた。おそらく、浄水場の濾過池と沈澄池への立ち入りは制限されていただろうが、工場南側の庭園には正門の守衛に断れば入ることができたのだろう。



 画家の描画位置からほぼ北を向くと、機関室と節炭機室に付属する巨大な煙突は前後で2本見えそうだが、あえて1本を省略したか、あるいはちょうど2本が重なって見えるような位置関係を選んでイーゼルをすえている可能性がある。明治末から大正期にかけ、淀橋地域や大久保地域の住民たちは浄水場の煙突の見え方で、いま自分がどのあたりにいるのかを推し量ることができたのではないだろうか。そんな地域のランドマークを感じさせる、淀橋浄水工場の“お化け煙突”だった。正宗得三郎『淀橋風景』は、いまだ買い手が現れないので、大正期の淀橋浄水場に興味がおありの方は「いのは画廊」へ……。

◆写真上:大正前半期の仕事とみられる、板に描かれた正宗得三郎『淀橋風景』。
◆写真中上の2葉は、1899年(明治32)ごろに撮影された竣工間もない淀橋浄水工場。は、淀橋浄水場の正門で工場は入って右手にあった。は、沈殿池側から遠望した浄水工場。より高いコンクリートの煙突が完成後で、昭和期の撮影とみられる。
◆写真中下は、淀橋浄水工場計画時の初期側面図と平面図。は、淀橋浄水工場の西側から東を向いて撮影された機関室・節炭機室つづきの巨大な2本の煙突。煙突に鉄輪がはまっているので、関東大震災による大きな被害の補修後か。
◆写真下は、1911年(明治44)の淀橋町市街図にみる正宗得三郎アトリエがあった西大久保207番地。は、同アトリエから淀橋浄水場へ向かった正宗得三郎の想定ルート。は、『淀橋風景』裏面に書かれたサインとタイトル。