大きな店には、それだけ多くの情報が集まっているだろうと想定した、自由学園Click!高等科2年の山脇登志子は、高田町でも有数の「荒物屋」を選んで取材している。おそらく四ッ家(四ッ谷)町Click!あたりの、目白通りに面した荒物屋だろうか。荒物の知識がない彼女は、あらかじめ取材ノートを作成していたらしく、商品の生産地や問屋、卸しのルート、専門職人、相場などについての質問を用意していた。
 荒物屋というと、大工道具や釘(くぎ)、ネジ、包丁、金盥(たらい)、スコップ、鏝(こて)、アルマイト製食器類など金属の生活用品を扱う金物屋と勘ちがいされがちだが、荒物屋はおよそ生活に必要な用具や用品をほとんど取りそろえている、今日でいうならホームセンターのような商店だ。だから、生活しているうえで足りない器物や道具、材料などがある場合、荒物屋へいけばたいていのものは手に入れることができた。金属製品から紙製品まで、ありとあらゆる生活用品を扱っているのが荒物屋だ。
 荒物屋の40歳ぐらいに見える主人は、親切な人柄だったらしく、女学生Click!の質問にひとつひとつていねいに答えている。また、いわなくてもいいようなことまで答えているのを見ると、根が正直な性格だったのだろう。大きな店舗にもかかわらず、店員をひとりも雇っておらず、すべて主人がひとりで切り盛りしている店だった。雇人がいないので、問屋から商品をとどけてもらうことが多いようだが、配送には手間賃がかかるので、ときには利幅を上げるために、自分で問屋に出かけて仕入れてくることもあったらしい。
 1925年(大正14)に自由学園から出版された『我が住む町』Click!(非売品)所収の「小売商を訪ねて」から、取材の様子を引用してみよう。
  
 『問屋は沢山ありますからどこから卸すとはきめてゐません。方々の問屋から卸してゐます。また問屋さんにこつちの欲しい品物がない時には、職人から直接に買つてくるんです。』/『問屋からと職人からとは、何方(どちら)が安く買へますでせう。』/『そりや直接の方が安くつきます。職人から問屋へ持つて行く中に、もう幾らかの手間賃がつきますからね。併し此方の欲しい品物を特別に誂(あつら)へる段になると、職人は馬鹿に高い価をつけますよ。問屋の方でも一つの品物の品数の多い時は、職人から買ふ位の安い価で買へますがね、品数が少い時には、そりやよくある話ですが、品物が一つしかなくて買手が大勢ゐる場合にはどうしたつて値が高くなりまさあ』/安く仕入れた時には安く売るんですかと聞いた時に、勿論だと云ふやうな顔をして笑つてゐた。(カッコ内引用者註)
  
 問屋へ出かけたとき、商品にいちいち相場があるのかという問いに、主人は「いゝえ、こんな店の品に相場なんかありませんよ。(中略) こんな細い商売の品に一つ一つ相場なんかあつた日にはやり切れません」と答えている。
 ただし、中には例外はあったようで、金属を使った金物商品の一部には、日々変動する相場が存在していたようだ。特に釘や針金の価格は常に流動的であり、問屋に出かけるとその日の相場が一覧で掲示されていたらしい。金属製品は、その多くの原材料が海外からの輸入品であるため、産出量や生産コストなどに応じて価格がしばしば上下していたのだろう。金属相場の値動きは、大正の当時もいまも変わらない。

 主人は、「細い商売の品」といっているが、確かにいまも昔も荒物専門店の数は少なく、生活用品がひととおりそろう雑貨店で売られているケースが多い。大正の当時も、食品や駄菓子、タバコなどを商いながら金物や紙類、掃除用具、台所用具なども販売するような店舗が、あちこちで開店していた。
 たとえば、下落合の目白文化村Click!でも、当初は青果店として出発した栗原商店Click!だが、住民たちの要望に応えて途中から食品・雑貨を扱う、文字どおり雑貨店として営業をつづけたと栗原様からご教示いただいた。女学生による高田町の全商店調査Click!でも、「被服/生活用品店」の分野では「雑貨屋」が83店舗ともっとも多い。
 そのような商業環境だったせいか、大きな荒物屋にもかかわらず店員をひとりも雇わずに、主人が直接問屋に出かけて商品を仕入れ、少しでも利益を上乗せしようとしていたのだろう。問屋に注文して、すぐに品物を配送してもらうほうが楽だったが、「持つて来て届けてくれる奴だつて人間ですから、毎日やつぱり御飯を食べてゐるんでせう、どうしたつて手間賃位は貰ひますよ」と答えている。
 売れる時期や売れ筋の商品について、主人の話をつづけて引用しよう。
  
 『一年中で何時の月が一番売れると云ふ月がありますか。』『やつぱり暮ですね。』『どんなものが一番売れますか。』『一番出るもんですか、そりややつぱり価の安い一寸手に入れやすいもの、例へば紙(浅草紙、ちり紙)のやうな種類のものですね。人が一寸道を通りがゝりに、目について、家に紙があつたかしら まあ買つていつても無駄になるものではないしと思つてか、又お湯屋の帰り道に釣銭でも出せば得られるやうなものですね、紙等は方々で売つてゐるから売れさうもないもんですが……但し紙だけを商売にして見ると、儲からない商売ですがね。添え物として店に並べて置くには相当の利のあるもんでさあ。又少し価の高いもんで、金物ぢやまあバケツですね。』
  


 年末にバケツが売れるのは、暮れの大掃除に使用したり、ときには火鉢の代わりに炭を入れて、どこでも手軽に暖をとれたからだろう。携帯火鉢のようにバケツを使っていた当時だが、すでに登場している肉屋Click!の主人も、店先で火鉢の代用品としてバケツに起こした炭火にあたっている。
 ちょっと主婦の口調をマネしたりして、面白い主人の話だが、すべての品物には1割以上で2割以下の利益を設定している、しっかりした商売人だった。特に、いちばんよく売れる商品と、破れやすい商品(障子紙や浅草紙などの紙製品だろう)には、かなり利益率の高い値段をつけて売っている。また、なかなか売れない商品には、10%ほどの利幅で値づけをしていると、細かく質問する女学生へ主人は素直に答えている。
 そして、店に置いてある全商品へ自分なりの価格をつけるのが面白いらしく、「安いも高いも勝手でさあ」と、主人は楽しそうに笑った。取材する女学生は、その主人の口ぶりから、おそらく来店した客層を判断して、相手が裕福そうであれば高く売り、あまり裕福に見えなければ、それなりに安く売っているのではないかと想像している。
 商人は、朝から晩まで商売のこと(儲けること)ばかり熱心に考えていられるが、消費者は上手に買うことばかり考えて暮らすわけにはいかないと、彼女は商店の訪問後の感想に書いている。ただし、消費者は買い物をするとき、もっと綿密な注意を払うべきであり、1軒の店ばかりで買い物をつづけるのは、長い目で見れば結局は損をすることになるので避けるべきだと結論づけた。最後に山脇登志子は、「沢山の店を相手に買ふ方が利巧な買ひ方になると思つた」と結んでいる。


 12回にわたり連載してきた、1925年(大正14)2月末に高田町で開店していた商店のレポートだが、これでひととおりご紹介したことになる。同レポートは、高等科の最上級生である2年生がまとめたものだが、『我が住む町』巻末には高田町の全戸調査に参加した、本科および予科、そして高等科に在籍する個々の女学生Click!たちが書いた、102人分の「調査の感想」が掲載されている。中には、面白いエピソードや当時の高田町を知るうえでは貴重な証言も含まれているので、また機会があったらご紹介したいと考えている。
                                   <了>

◆写真上:サクラ並木の日陰が涼しい、夏の自由学園校舎(現・自由学園明日館)。
◆写真中上:荒物屋というと思い浮かぶ、江戸東京たてもの園の「丸二商店」。
◆写真中下は、荒物屋の店先によく吊るされているアルマイト製のやかん。は、かなりオシャレになった現代風の荒物店店内。
◆写真下は、1925年(大正14)に来園して講演した遺伝学のR.ゴールドシュミット。は、東京帝大の農学部動物学教室で実習する高等科を卒業した研究生たち。