現在のロシアでは、非戦・反戦を口にする人物は警察から執拗にマークされ、それがメディアをもつ報道領域であれば徹底的に弾圧されている。プーチンを批判する記者は次々に殺され、非戦・反戦の姿勢で報道するマスコミは沈黙するか、地下へもぐるか、国外へ脱出せざるをえなかった。日露戦争のころ、キリスト教をベースに非戦・反戦を唱えたトルストイの母国が、21世紀の今日にしてこのありさまだ。
 ちょうどトルストイと同時期、沖野岩三郎Click!はトルストイズムに共鳴して、和歌山県新宮で日露戦争の勃発に際し、キリスト教会の信者や仲間たちとともに非戦・反戦を積極的に唱えている。だが、露骨な官憲による弾圧や嫌がらせ、町民たちからの憎悪をむき出しにした罵倒や非難、戦争へ賛同するように周囲から迫る言わず語らずの“同調圧力”などで故郷にいたたまれなくなり、1904年(明治37)に東京へ“脱出”している。彼が非戦・反戦を唱えるようになった原因は、教師の時代にまでさかのぼる。
 沖野岩三郎は1896年(明治29)、和歌山師範学校を卒業すると最初は県下で小学校の教師になっている。1900年(明治33)には、生まれ故郷の日高郡寒川(そうかわ)にもどり寒川小学校の校長へ就任している。その際、彼は生徒たちに向けて「日清戦争義戦論」を教えてしまっていた。彼はかつての教え子から、「私共に歴史を教へて下さる時、日清戦争は弱い朝鮮を助けて独立させる為めに起した正義の軍であると申された」と詰問された。沖野岩三郎は言葉に詰まって沈黙し、強い衝撃を受けている。
 実際は、朝鮮を独立させるどころか日本の植民地化をより徹底して促進し、日本が中国大陸にまで利権を拡大するための足場=橋頭保を築いた戦争だったからだ。同様に教え子から日露戦争について、「露国が朝鮮の背後から、彼の弱い国を奪ひに来るから、矢張り朝鮮の為めに其の弱きを扶けて独立せしむる為めに起した戦争だ」といわれ、なぜ日清戦争が勃発したとき教師だった彼はそのようなウソを教えたのか、教え子の顔を見つめたままひと言も返せず愕然とするしかなかった。
 当時の日本が、戦争を起こすたびに繰り返される「強国から弱国を救うため」「列強から弱国を独立させるため」「列強からアジアの植民地を解放するため」という「義戦論」は、1945年(昭和20)に大日本帝国が破産・滅亡するまで繰り返される。日清戦争では、「討てや懲せや支那兵を、支那は御国の仇なるぞ」と子どもたちが唄ったのが、「討てや懲せや露西亜兵を、露西亜は御国の仇なるぞ」へ単に入れ替わっただけだった。
 日本が、その「強国」や「欧米列強」となんら変わりのなない、植民地および利権を拡大するため19世紀型の帝国主義戦争をなぞっていることに、沖野岩三郎は1902年(明治35)にハル夫人とともに和歌山教会で受洗し、翌1903年(明治36)に教師を辞めるころには、教え子の言葉を突きつけられるとともに早くも気づいていた。日中戦争さらには太平洋戦争の敗戦後、教師たちが戦意高揚Click!と戦争賛美の教育をほどこし、教え子たちを侵略戦争へ送りだしていたことに気づいたのとまったく同じ経緯だ。
 このような情況の中、キリスト教会の活動を通じて非戦・反戦を訴えていく行脚は、周囲からの徹底した弾圧や迫害に遭うことになる。2008年(平成20)に書斎屋から出版された、関根進『大逆事件異聞-大正霊戦記・沖野岩三郎伝』から少し引用してみよう。
  
 日々、激しく非戦・反戦の辻説法を繰り返したために、「ロシアのスパイじゃ」「国賊!」「非国民め」と罵られて、とうとう教会にも居づらくなり、こんどは仲間に先立って東京の神学校に入学を決意する。/「夫れと同時に、私の文学思想は、露伴、紅葉を離れて、トルストイやゴーリキに進んだ。遂に洗礼を受けると同時にトルストイの非戦論が激烈に私の心を支配するやうになった。そして日露戦争の眞最中に私は激烈な非戦論を抱いて上京した」(「生を賭して」)/(中略) 岩三郎は上京して明治学院神学部に、ハルは女性伝道師を養成する米人宣教師ウェスト夫人の経営する私塾・聖書学館に入学するわけだが、東京遊学といった悠長な話ではなく、実際は地元からの批判を逃れるための脱出行に近かった。
  
 
 
 その後、1906年(明治39)に夏期伝道のため和歌山県の新宮を訪れた際、自身と同じような思想を語る大石誠之助やその仲間たちと出会うことになる。そして、明治学院を卒業するとともに、沖野岩三郎は望んで新宮教会の牧師として赴任することになった。このときから、彼と同じような想いや新しい思想をもつ新宮のキリスト教徒をはじめ医師、教師、僧侶、学生などと親しくなっていく。
 沖野は新宮で、一度だけ幸徳秋水に出会っている。秋水が「赤旗事件」に憤慨し故郷の高知から東京へ向かう途中、1908年(明治41)夏に大石誠之助邸へ滞在したときだ。その送別会は熊野川での舟遊びだったが、酒が飲めない下戸の彼も出席している。その席上で、沖野のトルストイズムと秋水のアナキズムは激しくぶつかり、送別会が激論の場になってしまったという。ふたりはおそらく折り合うことなく、そのまま物別れに終わっているのだろう。「大逆事件」が起きる2年ほど前のことだった。
 「大逆事件」の直後、その成りゆきへ敏感に反応した文学者に石川啄木Click!がいる。彼は裁判記録にまで目を通し、官憲の暴挙に激昂している。同書より、つづけて引用しよう。
  
 判決前後の日記には、「日本はもうダメだ」(明治44年1月18日)「社会主義は到底駄目である」(翌19日)と激し、秋水や大石らの処刑後、7千枚に及ぶ裁判書類を二晩かけてスバルの同人で弁護士の平出修の事務所で読み耽り、「頭の中を底から搔き乱された」と痛恨の思いを記している。/「明日を期待しつつも、社会的、個人的事情が暗く啄木をとりまき、その底辺に喘ぐもののニヒルな心境は、啄木に近代人の自覚が高かっただけ、如何ともしがたく」(秋山清Click!・著『啄木と私』)つきまとったのだろう。「我々青年を囲繞する空気は今やもうすこしも流動しなくなった。強権の勢力は普く国内に行きわたっている」(『時代閉塞の現状』)と、啄木が直覚したように、やがて、国家が個人の心魂の深奥まで支配するイビツな時代に突入する。
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 徳川幕府の封建制を倒し、入れ替わった政府に無理やり「資本主義革命」などと規定された明治維新が、実は軍閥・華族政権のタライまわしで、憲法や議会さえ20年以上も設定されることなく、本来の資本主義革命の政治思想とは無縁な、あるいはほとんど反映していない、徳川幕府に代わる単なる「強権の勢力」で「イビツな」国家であったことが、石川啄木のような高い「近代人の自覚」を、ようやく備えるようになった1945年(昭和20)の敗戦後、遅ればせながら「普く国内に行きわたっ」たというわけなのだろう。同書では、明治維新から敗戦までの政治支配を、まともな資本主義革命なら醸成されるはずの政治思想(民主主義・自由主義など)が存在しない、強力な「国権メスメリズム」と一貫して表現している。



 「大逆事件」を追いかけていると、当時のおもなアナキストや社会主義者を一網打尽にする事件をデッチ上げ、彼らを死刑または無期懲役へと落としこむと同時に、思想を問わず彼らの周囲にいた非戦・反戦を唱える人々までも、あわよくば網にひっかけて葬り去ろうとしていた政府の思惑が透けて見える。新宮における被告たちの遺族や家族は、沖野自身も含め「国賊」「非国民」とののしられて迫害されるが、生き残った沖野岩三郎は彼らの救援活動に奔走している。今日、大石誠之助らが新宮市の名誉市民として称えられているのを見たら、彼はどのような感慨を抱くだろうか。
 沖野岩三郎Click!は、1920年(大正9)8月に牧師を辞任すると、堰を切ったような勢いで小説や評論、エッセイ、童話、旅行記、研究書などを書きはじめている。その膨大な著作物や書籍は、もちろん刑事たちの常時尾行や頻繁な家宅訪問をともなう「特別要観察人」の抑圧下、下落合1505番地(昭和初期には下落合1510番地/1932年から1965年まで下落合3丁目1507番地/現・中落合2丁目)で書かれたものが多い。
 沖野の小説については、徳冨蘆花Click!など一部の作家を除き、当時の「私小説」家が群れ集う文壇からは、さっそく賀川豊彦とともに「純文学」ではない「通俗小説」家、あるいは異端の「牧師小説」家の称号を贈呈されている。同書より、再び引用してみよう。
  
 辻橋三郎は『死線を越えて』の作家・賀川豊彦Click!とともに、日本では数少ない牧師文学者として沖野岩三郎を位置づけ、沖野独特の宿命観について「紙の力を信じつつ、人生の矛盾をそのまま肯定する」という「祈りのある運命観」と評しているが、沖野が数奇な体験から得た宿命観とは、教条的な神学や神秘的な悟りの境地、さらに、逃避的な諦観を否定したものである。(中略) イエスという一人の男の受難に倣うことによって自由を摑む――この執着心こそが宿命論者としての崇高な生き方だと考えた。(中略) 沖野岩三郎は、ベストセラー小説『死線を越えて』の作者・賀川豊彦と共に説教臭い牧師作家といわれ、(中略)文芸評論家からは「一風変わった」通俗作家と位置づけられたにすぎない。
  
 「私小説」作家の間からは、あからさまに「下手糞な説教作家だ」「虚無党奇談の講釈師だ」とさんざん非難されたが、死ぬまでペンを置くことはなかった。
 1936年(昭和11)に美術と趣味社から刊行された「書誌情報」は、執筆する作家たちにアンケートを送っている。当時は、番地が下落合3丁目1507番地に変わっていた沖野岩三郎は、趣味は空欄としたうえで、「和歌山縣にて小学教師。明治四十年明治学院神学部卒業。大正九年より文筆生活。著書――童話、小説、感想、旅行記、研究 合計五十一冊」と答えている。すでに、就業していたはずの教会牧師が経歴から除かれている。また、彼は趣味が「読書」とも書けないほど、執筆に集中・没頭していた時期なのかもしれない。
 

 下落合では、第三文化村Click!(下落合3丁目1470番地 玉翠荘)に住んだ宮地嘉六Click!との間で、沖野岩三郎は面白いエピソードを残している。沖野邸と宮地邸は、直線距離でわずか160mほどしか離れていないので、当時は親しく交流していたようだ。お互い謹厳実直で、マジメを絵に描いたような性格だったせいか気が合ったのかもしれない。1941年(昭和16)に開催された竹久夢二Click!遺作展をめぐる逸話なのだが、それはまた、別の物語……。

◆写真上:1910年(明治43)3月に撮影された、「大逆事件」直前の新宮における記念写真。左からふたり目が浄土真宗大谷派の僧侶・高木顕明(死刑→無期懲役/獄中自殺)、中央が新宮教会の牧師・沖野岩三郎、右端が医師の大石誠之助(死刑)。僧侶・高木顕明もまた、現在は同宗派から僧籍復帰と名誉回復が行われている。
◆写真中上上左は、1899年(明治32) の寒川小学校の校長時代に撮影された沖野岩三郎。上右は、1905年(明治38)に撮影された沖野ハル。下左は、1926年(大正15)に出版された沖野岩三郎『宿命論者のことば』(福永書店)。下右は、1929年(昭和4)に出版された『現代長編小説全集21/賀川豊彦・沖野岩三郎篇』(新潮社)。
◆写真中下は、近代日本史料研究会(1959年)が保存していた警察資料「特別要観察人情勢一班第五」。「大逆事件」の遺族や家族を救援する沖野岩三郎の様子が克明に記録されているが、沖野のことは「思想頗ル険悪ニシテ基督教ヲ基礎トシ主義ノ普及ヲ図レル」などと書かれている。は、「大逆事件」で刑死した新宮の医師・大石誠之助。は、1917年(大正6)ごろに書かれた沖野岩三郎『宿命』の生原稿。
◆写真下上左は、1989年(平成元)に出版された野口存彌『沖野岩三郎』(踏青社)。上右は、2008年(平成20)出版の関根進『大逆事件異聞-大正霊戦記・沖野岩三郎伝』(書斎屋)。は、1924年(大正13)に下落合の自邸で撮影された沖野岩三郎・ハル夫妻(AI着色)。この写真は東西の生活文化や習慣Click!のちがいからか、少なくとも東京(おそらく関東も)では不自然に映る。イスに座るのは奥様(お上Click!)のほうで、男はちゃんと立ってなきゃ。