上記の写真は、世田谷や多摩川近くの新興住宅地ではない。大正時代に箱根土地株式会社(現・株式会社コクド)によって下落合3~4丁目(現・中落合2~4丁目および中井の一部)に開発された「目白文化村」という、いまから80年以上も前の住宅街だ。正式名称は目白文化村だが、地元では「落合文化村」と呼ばれることが多い。ほとんど同時期に開発された洗足や田園調布と並んで、東京の代表的な山手分譲住宅地のひとつだ。
 もともとモノクロ写真にあとから人工着色しているので、色合い的には不自然なのだが、それでも街並みの“異様さ”はよく伝わってくる。明治が終わったばかりの当時の人々には、この住宅街はまさに異様な光景として目に焼きつけられた。西洋風の建物といえば、当時は官公庁や華族、大金持ちの屋敷、教会や宣教師館、築地の外国人居留地跡、銀座商店街ぐらいしか目にしたことがなかったはずだ。住宅といえば、日本家屋が当たりまえの時代。それが、東京の緑が多く残る、当時は郊外だった下落合の丘上に突如、いままで目にしたことのない光景が出現したのだ。この“驚き”は、洗足や田園調布、少し遅れて荻窪文化村にも、地元共通の記憶としていまに語りつがれている。
 1922年(大正11)ごろから100~300坪ぐらいの土地に、当時としては「中流の上」ぐらいの官吏やサラリーマン、学者、作家、画家たちが外観は西洋風で、中身は和洋折衷の住宅を続々と建て始めた。東急電鉄(渋沢秀雄)が開発した田園調布がパリの街づくりを模したのに対し、目白文化村の箱根土地(堤康次郎)はロサンゼルス(ビバリーヒルズ)の街並みをめざしたのだという。1922年(大正11)に第一文化村が販売され、翌年の関東大震災があった1923年(大正12)に第二文化村、つづけて第三文化村、第四文化村と、目白文化村は毎年売りに出された。地盤がかたい武蔵野台地上に建設されたので、大震災の影響はほとんど受けていない。
 なぜ、いまだに目白文化村をめぐる資料や書籍が、途切れることなく出つづけているのか? それは、この住宅街が21世紀の今日までつづく街づくりのテンプレート=雛形として、また日本の一般家庭における和洋折衷の住宅建築の規範=テキストとして、いまでも活きつづけているからに他ならない。電気・ガス・上下水道が完備し(特に全家屋水洗トイレは画期的で、洋式トイレが初めて一部の一般住宅へ導入された)、住宅地の中には共同組合、クラブハウス、スポーツ施設、各種文化施設…etc.が建てられた。目白文化村において“実験”されたさまざまな新しい試みは、そのまま今日までディベロッパーのベーシックな教科書となっている。
 現代の都市型新興住宅街の元祖のような「目白文化村」だが、1988~89年に住宅総合研究財団が出した『「目白文化村」に関する総合的研究』が、いちばん新しい調査報告(1986~87年リサーチ)だ。ほとんど同時期に朝日新聞社も取材しているが、それ以降、まとまった調査は一度もなされていない。20年後の21世紀に入って、80年を超えた目白文化村Click!がどのように変わったのか、あるいは変わらなかったのか、散歩がてらに細かく歩いて調べてみたいと思う。また、実際に古くから目白文化村にお住まいの方々にもお話をうかがいつつ、ブログ連載レポートというかたちでご紹介したい。

■写真:箱根土地(株)が印刷した、大正期の「目白文化村」絵はがき。