和歌山に住む知り合いから、今年もみかんが1箱とどいた。薬剤洗浄やワックスがけなどしていない、文字どおり収穫したて、そのままの美味しい紀州みかんだ。毎年、この時期になると、みかんが到着するのをわくわくしながら待つのは、きっと江戸の昔も同じだったに違いない。
 紀伊国屋文左衛門という商人がいた。温暖な紀州で獲れるみかんを、大船に積んで命がけで江戸まで運ぶ…という、いまだかつて誰も思いつかなかった発想をして、大もうけをした人だ。模倣する商人たちが出るのを見越して、すぐに材木商へと転身し、八丁堀に大きな材木問屋を構えた。上野の寛永寺根本中堂をはじめ、江戸の町で文左衛門が手がけた建築の仕事は数多い。晩年は、柳沢吉保や荻原重秀の失脚とともに没落し、鄙びた深川八幡(富岡八幡)の傍らへ隠居したというが、いまでも文左衛門の屋号にあやかった「紀伊国屋」あるいは「紀文」という名称は、東京のあちこちに見られる。
 江戸前期、みかん栽培の最北限地は、湘南のまん中あたり、相模国は二宮(神奈川県中郡二宮町)付近だった。だから、江戸へわざわざ生命をかけてまで紀州みかんを運んでこなくても、高価だったとはいえ江戸にはみかんが早くから出まわっていた。それでも、文左衛門がみかん船を江戸へ廻航したのは、紀伊国で収穫されるみかんが美味しかったせいもあるが、もうひとつ「紀州みかん」というブランドを江戸で確立する意図があったのだ…と考えてしまう。“命がけ”で廻船したことだって、読売(瓦版)の話題づくりの販促プロモーションの一環だったようにも思える。紀州といえばみかん、みかんといえば紀伊国…。文左衛門が企図したブランド戦略は大成功し、いまでも東京では「紀州=みかんどころ」というイメージが強烈に根づいている。
 いまやみかんの最北限地は、山形県あたりまで伸びたのだろうか。4月ごろまで、青果屋やスーパーの店先でみかんを見かける。でも、とどいた美味しいみかんを食べながら、「やっぱり、みかんは紀州じゃなくちゃね!」と言っているわたしは、紀伊国屋文左衛門の販促プロモーション戦略に、300年後までまんまと乗せられているのを感じるのだ。