いわずと知れた、佃島にある佃煮の老舗だ。親父は、よく土産に「天安」の佃煮を買ってきた。だから、子供のわたしの舌がまず馴染んだのは「天安」の佃煮だった。しかし、いまは「丸久」の佃煮のほうをよく買っている。天安のほうが、昔の佃煮の味に忠実なのだろうが、いまのわたしにはややしょっぱすぎる。丸久の佃煮はしたじ(醤油)の量がやや少なく、そのぶん砂糖の分量が多めで、おしなべていま風な甘めの味つけだ。もう1店、天安の右隣りには「田中屋」の佃煮があるが、わたしはこの店の味に馴染みがない。
 昔の佃煮は、あさりかしらす、昆布、あみ、小えび、海苔ぐらいだったろうか。どれも、茶漬けにして食べるとたまらない。ところが、いまでは20種類近くの佃煮を売っている。見世前に立つと、どれにしようか迷うぐらいだ。ジッと見つめて楽しんでいると、「お決まりですか?」とすかさず声をかけられる。下町だから気が短い。わたしも気が短いから、つい昔ながらの品目の名をあげている。だから、いつまでたっても目新しい新種の佃煮の味を確かめられない。
 江戸期には、佃島から永代橋あたりにかけて白魚漁が盛んだった。当初、佃島の庄屋が家康へ献上したのも白魚だ。おそらく、江戸紫をつかって最初にこしらえたのは、白魚の佃煮だったに違いない。1600年代、既存の漁場をめぐっては、大川の漁師と大坂からやってきた佃の漁師との間で争いが絶えなかった。佃の漁師は、江戸湾のどこで漁をしても「御免かまひなし」の、家康じきじきのお墨付きをもらっていたから、やがて大川から江戸湾へと漁場が拡がるにつれ、湾のそこかしこで地元の漁師たちとの軋轢が生じる。江戸後期にいたるまで、佃島漁師と江戸湾各地の漁師との訴訟沙汰は絶えなかった。
 佃島の島民が、明石町や築地へ出かけるのを「江戸へ行く」と言っていたそうだ。現在でも住民たちは、対岸を指して「東京へ行ってくる」と言う。そんな幕府庇護の面目と、300年以上にわたって形成された心意気と、町を災いから守りきった意気地とが、佃島独特の風情をかもし出しているのだ。

 オスガキを連れての佃島、丸久へ寄ろうと思っていたが、つい昔ながらの天安にしてしまった。ここの佃煮の味を、オスガキどものデファクトスタンダートにしておきたい。陳列棚を眺めながら、白魚の佃煮はどんな味だったのかを想像してみる。正月、大川で白魚が獲れなくなったいま、徳川家へは東京湾のどんな魚を献上しているのだろうか? まさか、しゃこや穴子ではあるまい。