正月の初詣は、近くの氷川明神女体社と、この神田大明神へ出かける。わが家はともに出雲系、ふたつの社(やしろ)の氏子だ。氷川明神のほうは、拝殿までの行列は待っても15分ほどだが、神田大明神は1~2時間かかることもめずらしくない。神田明神の創建は、一応730年(天平2)ということになっているが、江戸岬の先端、柴崎村に社が建てられたときには、すでにもうなんらかの“聖域”となっていたようだ。のちの発掘調査(1924年)で石棺が発見されているので、もともと江戸期の形状とあわせて考えると、古墳期の円墳※だったと推測されている。氷川明神と同様、こちらも由来が不明なほど古い聖域だ。その後、神田明神は柴崎村から神田山山頂へ、そして神田山が江戸湾埋め立てのために崩されると山麓の現在地へと移転した。
 ※その後、鳥居龍蔵が関東大震災直後に撮影した写真Click!から、円墳ではなく小型の前方後円墳らしいことが判明。
 江戸東京の総鎮守として、近隣氏子は約1万7千戸(約10万人)、江戸期からの旧各町の氏子連を含めると総数150万人、つまり現在でさえ東京23区の全人口のおよそ20%弱が、神田明神の氏子となる。この数字は、寺社門前町を除いた江戸後期のちょうど府内全人口に匹敵する。神田祭は、2基の神輿と36基の山車(現在は形態が異なる)、さらに旧江戸各町内の百数十基の神輿が繰りだす、東京のみならず日本最大の祭りだ。江戸期には、徳川家の産土神である山王権現の大祭とならんで「天下祭り」と呼ばれていた。大川から柳橋の神田川へと入り、旧・大江戸(おえど)の各町内から神田明神めざして祭り舟がいっせいに川をさかのぼってくる。(近ごろは混雑防止のために輪番制)
 徳川と神田明神の関係は古い。室町幕府のもと、徳川(松平)がまだ世良田の姓を名のり、北関東の世良田(群馬県尾島町)に居拠していたころから関係があった。家康の5代前、世良田親氏が柴崎村の神田明神へ参拝し、氏子になっていたことが『神田大明神由緒書』にみえる。この世良田姓は、のちに徳川7代将軍家継の幼名から復活している。よく歴史本などで、室町末期だけをプレパラートのように切りとって、「三河・駿河の徳川は強大な勢力をうとまれて、秀吉により大坂から遠く離れた馴染みのない坂東へと移封された」というような記述があるが、明らかに誤りだ。ひとつ前の時代、北関東(栃木)出自の足利幕府の存在を忘れている。徳川は室町後期に坂東を離れていたが、世良田家代々の氏神のひとつ、神田明神のある故地へようやく「もどれた」ことになる。当時、神田明神の主柱は、出雲の大己貴命(おおなむちのみこと=大国主命)と平将門命の2柱だった。

 1873年(明治6)、神田明神の氏子たちを驚愕させる出来事が起きる。明治政府の教部省(旧・神祇省)から、主柱の将門を外して末社とし、少彦名命を奉れと言ってきたのだ。少彦名命は常陸大洗磯前社より勧請するように・・・と、ご親切なことに勧請先まで指定されていた。当然、神田明神側は突っぱねたが、教部省は要求を受け入れなければ廃社にすると脅迫した。氏子連が承知するはずもなかったが、翌年、15代神主の柴崎好定は政府の圧力に負け、氏子の了解なしに勝手に将門を本殿から外し、代わりに少彦名命を奉ってしまった。これを知った氏子たちは、柴崎神主を即日追放している。のちに、氏子たちが神主として選んだのが、平将門の後裔とされる人物だったのをみても、その怒りがどれほど激しかったかがわかる。
 ちなみに、この1874年(明治7)という年は、明治政府が国家神道※的な思想統制のもと、全国の社で日本古来から伝わる地域に根ざした奉神(国津神・地主神など)を勝手に入れかえ、また明神、天神、稲荷、権現、八幡、弁天などを十把ひと絡げにして「神社」という名称に変更している。さらに、社の「位列・系列」が恣意的に決められ、「大宮」よりも創建が古い社が系列社とされるなど、奇妙キテレツな現象まで起きてしまった。地元市民の心の拠りどころであり、大江戸の武士や町民のシンボル的な神田明神に手を出したのは、事情をよく知らなかったとはいえ最大の錯誤のひとつだろう。この時点で明治政府は、神田明神の氏子連、要するに江戸からの士族と町民のほとんどすべてを“敵”にまわしたことになる。以降、江戸期からつづく東京市民の、明治政府への非協力と「薩長土肥」(特に薩長)の陰に日になりの“排斥運動”へと火がつく。(こんなこと、文科省の歴史教科書には黙していっさい書かれていないが/笑)
 わたしが子供のとき、親父のところへ年賀に訪れた人物が、なにを思ったのか成田山新勝寺の護符をもってきたことがある。あまりに地元の歴史や事情を斟酌しない不用意さで(ご本人は善意なのだろう)、護符を土産にするというのも非常識だが、それをその場で即座に破り捨てた親父も大人げがないと思う。(主切腹の浅野家見舞いへ、吉良邸稲荷の護符をもってくる無神経さ・・・とでもいえば、よその地域の方でもおおよそニュアンスがつかめるだろうか?) でも、それほど大江戸地元の怒りは代々強烈だったのだ。(当時は、まだ将門は神田明神の主柱へと復帰していなかった)  成田山新勝寺は、関東で唯一、朝廷の圧力に屈して将門調伏を祈願した寺だ。神田明神の氏子は、ふつう成田山へは詣でない。
 末社へと格下げされた将門は1984年(昭和59)、ようやく1世紀ぶりに再び神田明神の主神へと復活する。将門復帰のために、親父たちの世代まで粘り強い運動が、実に100年近くも延々とつづいたのだ。戦後、ときには怒った氏子たちが神社本庁へと押しかけ、険悪な状況から打壊し(ぶちこわし)寸前になったことさえあったと聞く。神田祭は、本殿で大己貴命(など)の乗輿したあと、元神田明神があった芝崎村(大手町1-1-2/将門首塚)へ神輿をすえ、奉告祭(将門命へ祭を告知)そして発輿祭(神輿へ渡乗)からスタートする。これは、将門が主柱から外されたあと、明治政府の妨害や弾圧にもかかわらず決して変ることはなかった。

■写真:2005年元日の神田明神(上)と、昭和初期の将門首塚における発輿祭(下)。神田明神門前の地下には、高さ1.5mほどの横穴が縦横に掘られているのを知る人は少ない。ビル建設で地下壕が出現すると、防空壕の跡だと勘違いされることが多いが、甘酒の麹づくりのために江戸期からつづく広大な麹室トンネルだ。
※戦後の用語であり、明治期には存在しない。