ひょっとすると、西日本の方はいったいなんの話やら、わからないかもしれない。きょうは、江戸紫(濃口醤油)について・・・。料理をよくするわたしにとって、したじ(醤油)はとても大切な調味料のひとつだ。でも、ずいぶん前から大量生産される、アルコールや保存料などの入った「醤油もどき」は使っていない。いま、愛用しているのは東京の世田谷区で造られている、国内大豆100%による混じりっけのない本醸造の製品だ。
 さて、使わないしたじの代表格に、江戸時代から下総野田(千葉県野田市)にあったキッコーマン(亀甲萬)醤油がある。でも、親たちは好んでキッコーマン醤油を使っていた。なぜ、数あるしたじの醸造元の中でキッコーマンなのか、ずっと疑問に思ってきた。江戸・明治期からつづく醸造元には、ほかにも銚子のヤマサ(山サ)だってヒゲタ(髭田)だってあるじゃないか。なのに、なぜかたくなにキッコーマンなのか・・・? いや、親たちばかりではなかった。東京では、醤油といえばキッコーマンといわれるほど、この醸造元はいわばデファクトスタンダードであり、圧倒的なシェアを維持してきた。「本醸造」が宣伝のうたい文句だけになり、いろいろな混ぜ物をするようになってからも、キッコーマン醤油はどこの家庭にも置いてあった。
 疑問がとけたのは、かなりたってからだ。幕末、野田の亀甲萬の家元に、茂木七郎左衛門という義侠家がいた。平たくいえば、醤油を作りながら地回りやくざ(いまのヤクザとは別もの)を家業としていた大親分だ。キッコーマンのWebサイトをのぞいてみたが、さすがに「親分」のことは書いてない。それどころか、大正の「野田醤油」以降の沿革しか掲載されてなかった。この亀甲萬親分、したじを大江戸(おえど)に卸して商売していたのだが、薩長軍がやってきて上野戦争が起きそうになると、さっそく決戦を唱える彰義隊(しょうぎたい)と、持久戦を唱える靖共隊(せいきょうたい)とに肩入れした。彰義隊が上野で破れたあと、落ちのびる隊士を野田でかくまい、仙台に向かう靖共隊も助(す)けようとしたようだ。でも結局、隊士たちはほとんどが捕まって入牢となってしまうのだが・・・。
 この一件があって以来、大江戸のちに東京の町辻は侠気の茂木親分をたたえて、したじを使うなら銚子の「山サ」でも「髭田」でもなく、野田の茂木七郎左衛門が造る「亀甲萬」となった。このいきさつを、親の世代までが記憶していたということなのだ。いまだ関東では、キッコーマンが圧倒的な市場シェアを持ち、全国でも1位(いや、世界的にもかな?)の座はゆらいでいないらしい。ことさら派手な宣伝をしなくても、製品が東京で売れつづける秘密が、幕末の茂木親分の大江戸びいきにあったことなど、きっとキッコーマン株式会社の若い社員は知らないだろう。
 遺伝子組みかえの大豆を使わず、混ぜものもしないで本醸造のまともな江戸紫を造ってくれたら、キッコーマンではなくちゃんと亀甲萬のしたじにもどってくれたら、そのうちまた買ってやってもいいけれど・・・。