下谷の練塀小路といえば、江戸時代には城の数奇屋坊主が寄り集まって暮らしていたことで有名だ。茶坊主とも呼ばれているが、その実は登城してきた大名に茶も出すけれど、江戸後期には城内の案内便宜や連絡係、秘書、相談役、情報源といった、千代田城全体をしきるコーディネーター的な役割も果たしていた。身分は、いちおう直参ということになっている。だから、茶坊主の機嫌を損ねると、いろいろな便宜をはかってくれないとあって、諸大名たちはこぞって賂(まいない)を贈ることになった。練塀小路は、いわばそんな腐敗した茶坊主たちが屋敷をかまえていたところだ。
 その1本東にある下谷御徒町通り(昭和通り)は、小旗本や御家人、あるいはさまざまな技術をもった専門職の武家たちが屋敷や工房を連ねていた町だし、その西側にある寛永寺黒門へとつづく下谷御成街道→下谷広小路(上野広小路)は、大手呉服店の松坂屋や上野見物の客たちが集まる水茶屋・料理茶屋がひしめく一大繁華街だった。道1本へだてただけで、これほど次々と風情が異なる町は、江戸でもたいへんめずらしい。そんな練塀小路が、最近とんでもないことになっていた。秋葉原駅周辺の再開発で、小路ならぬ大路へと生まれ変わろうとしている。
 秋葉原駅の練塀町から花岡町にかけて、町のかたちを見るとほんの少し面影が残っているが、明治に入ってからここには大きな入舟堀が掘られた。江戸期ではなく、明治期の1892年(明治25)に掘られた運河としてかなりめずらしい存在だった。当時の人々は茶坊主たちの屋敷を、きっと小気味よく壊しては工事にあたったのだろう。入舟堀が掘られたのは、1890年(明治23)に秋葉原へ鉄道の貨物駅が造られたからだ。貨物駅にとどいた荷を、神田川や日本橋川を通って東京市各地へと配送し、逆に東京中の荷がここへ舟便で集められた。秋葉原駅が、客車を扱うようになるのは1924年(大正14)。それまでは、いまでいう物流の一大配送センターといった役割を果たしていた。秋葉原停車場の工事や移転も、時代ごとひっきりなしに行われた。1955年(昭和30)に、入舟堀は埋め立てられて公園になった。そう、秋葉原駅=練塀小路界隈は明治期に入って以降、震災や空襲をはさんで工事ばかりが行われている、あわただしいばかりの練塀工事現場なのだ。

 この界隈を描いた芝居では、天保六佳撰の『天衣紛上野初花(くもにまごううえののはつはな)』が有名だ。初代・二代ともに、吉右衛門の当たり役だろう。河内山宗俊は実名・河内山宗春という実在の人物で、相当に悪いことをやらかしたようだ。関東大震災の前まで、河内山宗春(俊)が住んでいた家は保存されていたそうだが焼け、庭にかろうじて残っていた石灯籠も東京大空襲で破壊された。宗春(俊)は、祖父の代から大奥紅葉山の御時計ノ間(おとけいのま)につかえる茶坊主だったが、裏では大名や金持ちの恐喝を副業にしていたといわれている。松平出羽守へ腰元にあがった、池田屋の娘“菊野”を助けるために、「凌雲院大僧正」になりすまして赤坂見附へ出かけていったのも、どうやら事実らしい。
 御時計ノ間に置かれていた、純金の瓶子(へいじ)を持ち出したのが発覚して入牢となり、最後はさびしく獄死している。あるいは、千代田城内や諸大名の裏事情に知悉していたので毒殺された・・・という説も、昔から途切れずにつづいている。工事ばかり繰り返して、ちっとも落ち着かない昨今の秋葉原=練塀小路界隈を見たら、河内山はなんと言うだろうか?
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 腹にたくみの魂膽(こんたん)を 練塀小路にかくれのねえ いゃさ えれきてる丁にかくれのねえ お数寄屋坊主の宗俊だぁ 縄張り造作とぎれのねえ いつまでつづくか秋葉原 おれぁとっくに飽きは腹だ ば~~~~かめ~!

■写真:左はオフィス街に変身中の神田練塀町で、右は1950年(昭和25)ごろの同じ場所。下は、『河内山』の九代・市川海老蔵。(戦前)