永代橋まで来ると、潮の生ぐさい匂いとともにどこかホッとする。これは、湘南電車(東海道線)に乗っていて、大船をすぎたあたりから潮の匂いがしてくるにつれ、身体が少しずつ弛緩していくのと同じ感覚だ。山手のことを書くときは、ついつい構えて文章もかためになってしまうのだが、下町のことを書くときはとんと気楽で、キーボードの入力もかなり速い。「目白文化村」を終えたら、ちょいといまの地元から離れて、わたしの“庭先”シリーズでも始めようかと思ってる。
 永代橋は、霊岸島(箱崎・越前堀含む)と深川佐賀町とを結ぶ、江戸期には大川(隅田川)最下流の橋だった。名前の由来は、その昔、埋め立てがまだあまり進んでいなかったころ、深川一帯は「永代島」と呼ばれていて、深川八幡(富岡八幡)の別当として永代寺もあったからだ・・・といわれている。でも、この巨刹の永代寺、明治政府によって強引に廃寺にされ、そのあとに将門調伏に加担した成田山の不動尊がおさまった。それが、明治期の新しい「深川不動」だ。永代寺檀家やゆかりの濃かった深川の人たちは、いまだに明治政府への恨みつらみを語りついでいる。「門前仲町」は、永代寺門前仲町が正式名称なのだ。神田明神のときと同様に、わけのわからない場違いな「深川不動」を廃寺にして追い出し、参道脇にまるで遠慮するように小さくまとまっちまった永代寺を、元へもどす運動をされたらいかがだろうか?
 永代橋といえば、書き忘れちゃならないのは「髪結新三(かみゆいしんざ)」だ。黙阿弥作『梅雨小袖昔八丈』(つゆこそでむかしはちじょう)は、まさに深川~永代橋界隈が舞台の人気芝居。小悪党の髪結新三は、町内の得意先をまわっては髪を結って歩く、いわゆる「まわり髪結い」。いまでいうと、出張専門のヘアデザイナーといったところだ。得意先で仕入れた情報をもとに、機会さえあればゆすりたかり、うまい汁を吸おうとする。
 

 白子屋の娘“おくま”に縁談が舞いこみ、すでに手代の忠七といい仲なのを知ると、さっそくふたりを騙しておくまを連れ出し、自分の長屋へかどわかしてしまう。なにも知らない忠七が、新三とともに永代橋へ差しかかると、いきなり新三は傘で忠七を叩きのめしてしまう。騙されたのを知った忠七は、永代橋から身を投げようとするのだが・・・といったような筋立て。髪結新三が忠七をKOしたあと、傘を片手でサッとかっこよく開き、永代橋を渡っていくときに吐くセリフ(文字どおり“渡り”ゼリフだ)が、「ざまぁ見やがれ~」だ。永代橋と髪結新三の「ざまぁ見やがれ~」は、いわばセットになったパソコンとディスプレイみたいなもの。切っても切れない関係にある。
 親父の影響からか、永代橋を渡るときは一度「ざまぁ見やがれ~」と言って通らないと落ち着かない。リバーシティ21のおかげで佃島が見えなくなっちまった、ざまぁ見やがれ~。あんな高いとこに住んでて、地震でエレベーターシャフトが数ミリゆがんで停まっちまったら食料や水の配給はどうするんだい、ざまぁ見やがれ~。きょうも遊びじゃなくて仕事で永代橋、ざまぁ・・・ないやな。

■写真上:左は永代橋から望んだ石川島、右は1952年(昭和27)の永代橋で、猪牙が活きていた。
■写真下:左は「髪結新三」は六代目・尾上菊五郎、忠七は十四代目・守田勘彌。(戦前) 右は桜の永代橋。