七曲坂に大蛇(おろち)が棲みついていた・・・という伝説がある。タヌキもいるのだから、大蛇だっていただろう。いまでも野鳥の森公園の近所には、2m前後のアオダイショウが棲んでいる。でも、口承伝承されているこの大蛇(おろち)が、単に下落合の民話や昔話だけで片づけられないいわれを感じるのは、以前、「鋳成と荒神と目白Click!でも触れたとおりだ。
 上流の下落合にある櫛稲田姫(クシナダヒメ)の氷川明神女体宮と、下流の高田にある素盞鳴命(スサノウノミコト)の氷川明神男体宮が対をなすように存在しているのも含め、出雲の「八岐大蛇(ヤマタノオロチ)」伝説と同様に、産鉄に関わるいわれがあるのではないか?・・・というのが、その主旨だった。そのとき、「タタラ跡や火床跡を暗示する銑滓や鉧滓が見つかった記録は、わたしの知りうる限り存在しない」と書いた。ところが、大がかりな鍛冶場跡は、すでに下落合近辺から発見されていたのだ。
 わたしは不勉強にも、西武新宿線の中井駅と直近の山手通りの真下が、大きな鍛冶場の遺跡だったとは知らなかった。翠ヶ丘の中央あたり、赤土山(山手通り切通しの山)一帯に、古墳時代の遺跡が発掘されていた。(『落合新聞』1963年1月27日号) 大正期に西武電気鉄道が敷設され、昭和初頭に中井停車場と改正道路(山手通り)が建設された際、鉧(けら)や銑(ずく)のカス(鉄滓/金屎)、火床跡や炭粉などを含む残滓が大量に発見されているのだ。1924年(大正13)に、古墳時代の遺跡とともに小松慎一という考古学者が発掘した。つまり、これらの埋蔵物は、そこに大規模な鍛冶場があったことをストレートに証明している。残念ながら、中井遺跡の鍛冶場跡は詳細に調査された記録も、本格的な学術報告書も残っていない。下落合地域の遺跡調査が本格化するのは戦後だから、その当時の出土物などは容易に見すごされたのだろう。戦前は畑の中に、縄文式や弥生式の土器片がゴロゴロしていたという記録も、新宿歴史博物館の資料に見える。
 小鍛冶(道具鍛冶/刀鍛冶)がいれば、当然ながら近くに鋼を精錬する大鍛冶(タタラ)の集団もいたわけで、神田川や妙正寺川の流れを利用して、古代における川砂鉄の収集法「カンナ流し」が行われていた可能性がきわめて高い。これら古墳時代の鍛冶集団が、鉄製の直刀が出土した下落合横穴古墳群と直結するかは安易に判断できないが、少なくとも鉄と密接に結びついた地域であったことは間違いなさそうだ。そこで、七曲坂の大蛇伝説にもどるわけだが、この伝説がいったいいつからつづいているものなのか不明だ。すぐ近く、御留山下の「丸山のがしゃ髑髏」伝説と同様に、いわれをたどれないほど言い伝えは古そうだ。七曲坂の大蛇は、いちおう江戸時代に退治されたことになっているが、いつ誰がどのようにして「退治」したのかがわからない。ただ単に、物語伝承のオチ(サゲ)としてのちに付会された可能性が高い。

 出雲の「八岐大蛇」は、山奥にこもって鋼を精錬するタタラ民(山人)の象徴だ・・・とする有力な説がある。タタラの溶炉から流れ出した柿色の溶鉄が、頭が八(たくさん)に割れた大蛇のように里人たちには見えたからだ・・・とも言われている。そして、スサノオが退治した大蛇の尻尾からは鉄剣、すなわち「天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)」が出てくるのも、とても象徴的だ。七曲坂から150mほど西に寄ったところから鉄の直刀が出土し(実はまだ近辺からも出土しているのだが)、さらに西へ1km足らずのところに大規模な鍛冶場跡がある。・・・ということになると、出雲でスサノオがクシナダヒメを「八岐大蛇」から助けるために、斐川(ひかわ)を上流へさかのぼっていった伝説と、高田から落合にかけて川沿いに展開する氷川の意味するもの、そして上流へとさかのぼると「大蛇」が顔を出し、さらに上流には産鉄・製鉄をなりわいとしていた人々の痕跡があるのは、あまりにも出雲神話に符合しすぎていはしまいか。
 いまから、おそらく1700年以上も前のある日、「氷川」という“聖域”が誕生したいわれとともに、神田川や妙正寺川の流域では、いったいどんな物語が紡がれていたのだろうか。

■写真:左は2005年の大蛇伝説が残る七曲坂、右は1955年(昭和30)の同坂。