大正末期から昭和初期にかけて、下落合の街角にはいろいろな広告やビラ、ポスターが貼られるようになった。その当時は、淀橋区(1932年・昭和7)はまだ成立しておらず、豊多摩郡落合町すなわち、広告にも記載されているように「東京市外落合町下落合」と表記されていたころだ。
 明治末から大正初期にかけて、現在の下落合2~4丁目(旧・下落合1~2丁目)に華族や軍人の大屋敷が建てられ、大正11年には中落合(旧・下落合3~4丁目)に「目白文化村」が誕生している。このような宅地化に比例して、目白通り沿いにはさまざまな企業や商店が進出してきた。そして、多彩な広告が街中に見られるようになる。地元に関連した出版物へ掲載された媒体広告をはじめ、街中の電柱や塀などに貼られるポスター、各戸に配布するビラなどが急増していった。
 上記の商標「大黒天印甲斐産葡萄酒」の広告は、各種媒体広告をはじめ、おそらく電柱や塀、酒店などに貼られたものであろう。下落合10番地にあった「甲斐産商店」という店が販売していた、山梨県産のワインやブランデー、グレープジュース(葡萄液)の広告だ。淀橋区が誕生する前、丁目の記載がない大正期から昭和初期の下落合10番地というと、ちょうど日立目白倶楽部の真下、現在の東京教育専門学校の敷地に当たる。「御大礼記念国産振興東京博覧会」で、第1位の「有料国産賞牌」を受賞したとあるから、1928~29年(昭和3~4)のころだろう。
 この「大黒葡萄酒」を醸造していたのは、「山梨縣祝村」の宮崎光太郎という人だが、明治中期にフランスへ留学してワイン造りを学んできた人物だ。帰国後、大黒葡萄酒株式会社を明治末に設立している。日本とフランスとでは、ブドウの成育環境がまったく異なるため、上質なワインを醸造するまでは苦労の連続だったようだ。調べてみるとこのワインの醸造所、現在の三楽オーシャン株式会社のメルシャンワインのことだった。大正期には早くも、近郊山手に拡がった需要が見込めるお屋敷街に目をつけて、さっそく進出してきたらしい。そんなことを考えながら、当時の下落合事情明細図を調べてみたら、なんと宮崎幸太郎ご本人の自宅も下落合10番地にあったのだ。東京の繁華街へ卸すばかりでなく、下落合では自宅の一部を工場+店舗として「大黒葡萄酒」の販売をしていたらしい。「即ち本邦に於ける純粋葡萄酒醸造の創始なりと云ふ」と、町誌にはたたえられている。
 

 出雲神にいわれの深い下落合界隈で、大黒(大国主命)のワインというのは、なんとなく因縁めいて面白い。大江戸の総鎮守(神田明神)は大国主命だけれど、東京におけるSP(セールスプロモーション)戦略を見越したブランドの確立だったのだろうか? 山梨というと同じ出雲神でも、大国主の子である建御名方神のほうがポピュラーなはずだけれど・・・。

■写真:上は大黒葡萄酒の媒体広告(下落合バージョン)、下は淀橋区ができる1932年(昭和7)まで存在した、落合第一小学校前の落合町町役場(下落合1422番地)と、宮崎邸あたりの事情明細図(1926年・大正15)。