下落合・目白とその周辺は、ほんとうに面白い“物語”だらけでテーマに困らない。現在や過去を問わず、文字どおり無数のエピソードが目白押しだ。こうなると、わたしの“下町”ブログはいつまでたっても始められない。わたしは長谷川時雨のように、ふるさと日本橋界隈と祖先が眠る本所・深川・小日向あたりのことを、少しずつ書いていきたいと思ってブログを始めたのだが・・・。(汗) 

 下落合駅から十三間通り(新目白通り)をわたって、駅前交番の先を西坂へとのぼる手前に、細い道が新目白通りと平行するようにしばらくつづいている。御留山下から薬王院前を経由してつづく、鎌倉古道の名残りだ。この小道は、すぐに再び新目白通りへと合流してしまう。放射7号線ができる前、この小道は現在の“ひとみマンション”脇の道へと通じていた。
 いまでは、新目白通りの真下になっているこのあたりに、内閣総理大臣が息をひそめてジッと隠れていた。1936年(昭和11)2月26日未明、首相官邸で寝ていた首相は、突然の激しい銃撃音で目がさめた。二二六事件Click!のときの内閣総理大臣、岡田啓介だ。
 海軍出身の岡田啓介は、徹底した軍縮主義者として知られていた。主力艦のワシントン条約、ついで補助艦のロンドン条約とつづく海軍艦艇の軍縮会議を成功させるために、海軍省内を奔走した。ロンドン条約のあと、さらに日本主導の軍縮会議を企画していたのでも知られている。やがて、海軍を退役した彼は1934年(昭和9)、政界で内閣総理大臣に指名される。
 

 首相官邸を襲撃した、陸軍第1師団・麻布1連隊および3連隊の兵士たちによって、岡田首相は殺害された・・・と思われた。翌日の新聞にも、岡田首相即死の見出しが大きく踊った。ところが、実際に射殺されたのは、面立ちのよく似た首相秘書をつとめる義弟の松尾伝蔵大佐だったのだ。岡田首相は官邸に詰める女中の機転で、女中部屋の押入れへとかくまわれていた。のちに、反乱軍が占拠をつづける首相官邸の押入れで、岡田首相はイビキをかいて寝ていたと伝えられている。それほど、肝のすわった人だったようだ。
 翌日の夕方、弔問客に化けて首相官邸を脱出した岡田は、友人の尾崎行雄の娘婿である政治家・佐々木久二のクルマに乗って、ようよう下落合の佐々木邸までやってきてひと息ついた。そして、情勢が落ち着くまで、下落合1147番地の佐々木邸で福田秘書官とともに息をひそめてすごすことになる。おそらく、2月26・27日の両日は、岡田啓介にとって生涯でいちばん長い日だったかもしれない。「わしは生きとるゾ!」と世間に出て行ったのは、2月28日の夕方だった。

 海軍省内の強い反対や、右翼や陸軍のテロルの脅威にもひるまず軍縮を進め、軟弱だの腰抜けだのと非難されつつ、実際にテロリストたちが首相官邸へ押しかけてくるや、女中部屋に隠れて高イビキをかき、弔問客にドロンと化けて「こりゃ、マジ超やっべ~」と、すたこら下落合まで逃げてきた岡田首相が、わたしは好きだ。いまでも、この通りの下になってしまった旧・佐々木邸から、「助かったのが、嬉しいんだか悲しいんだかわからん」(事件後の談話)・・・と、ブツクサぼやく声が聞こえてきそうな気がする。

■写真上:佐々木邸があった新目白通りの路面、左手が「ひとみマンション」。
■写真中:左は射殺された松尾伝蔵予備役大佐、右は岡田啓介首相。
■写真下:放射7号線が貫通する前の佐々木邸あたり。佐々木邸には室内プールが設置されて近隣の話題となったが空襲で建物が焼け、プールはのちに「落合プール」となっている。