この女性を見かけたら、お知らせください。高田馬場駅の主(ぬし)なのです。1970年代半ばより25年間も行方不明で、先ごろようやく帰郷したのですが、またもや誰かに拉致されて連れ去られてしまいました。1970年代半ばは20歳前後のお姉さんでしたが、いまは40代のお姐さんClick!になっているはずです。
※その後「平和の女神」は無事、駅前広場に帰還している。
 ・・・ということで、高田馬場駅の「平和の女神」像なのだ。駅前広場のまんまん中、噴水の中央に起立する彼女は、なんとも毅然としていてかっこよかった。高田馬場駅前にロータリーができてからずっと、この駅のシンボル的な存在だったのだ。「平和の女神」は、1945年(昭和20)4月13日、さらに5月25日の夜半に起きた高田馬場駅から下落合の神田川・妙正寺川沿い、そして目白文化村にかけてのB29による空襲の惨禍を繰り返さないために、祈念して創られたものだろう。
 ところで、地元の戸塚町や諏訪町の町民による熱心な陳情により、品川赤羽鉄道(山手線)に高田馬場駅が設置されたのは、1910年(明治43)のことだった。駅名は、地元の希望により「上戸塚(かみとつか)」または「諏訪森(すわのもり)」になるはずだった。でも、当時の鉄道院(のちに鉄道省)は、地元を無視してなぜか強引に「高田馬場」とつけてしまった。神田明神と同じ、出雲の大国主命が鎮座する「諏訪森」だったら、女神のお姐さんが似合うキレイなイメージだったのに・・・。
 本来の高田馬場の位置(早大西門前)からは、1.2kmも西へ外れた妙ちくりんな駅になってしまった。当然、ホンモノの高田馬場周辺に住む住民たち(戸塚町/馬場下界隈)はもちろん、駅周辺の住民たちも黙ってはいなかった。明治期としては珍しい、猛烈な反対運動を展開している。幕府の高田馬場とは、まったく縁もゆかりもない場所に、「なんでこちとらの名前(なめえ)を勝手につけるんだよう、ええ? 堀部安兵衛に、もう十一丁もよけいに走れってか? ババやろう、いや、バカやろう!」・・・というわけだ。
 住民たちの強い抗議に、鉄道院はなんら整合性のある説明ができず、しだいに追いつめられていった。そしてついに、メチャクチャなことを言い出したのだ。「おたくらの名所はタカタノババ、うちの駅名はタカダノババ。だから、おたくらのタカタノババとは縁もゆかりもない、鉄道院オリジナルのまったく新しい駅名だ。文句を言うのは筋違いである」・・・。これ、まるで落語のようだが実話だ。 こうして、山手線の中で唯一、地名を反映しない、おかしなおかしな空想・架空の駅名ができあがった。

「上戸塚」「諏訪森」という駅名が、他の鉄道駅とバッティングするから「高田馬場」にした・・・という説もあるようだが、のちの鉄道院(省)による「解説」用の付会ではなかろうか。『戸塚町誌』では、村民(当時)と鉄道院とのやりとりの経緯までが記録されている。地元の町史『我が町の詩・下戸塚』にいたっては、よほど肚にすえかねるのか、高田(たかた)や高田馬場(たかたのばば)にはルビをふらず、「高田馬場駅」のみにすべて「たかだ」とルビをふる念の入れようだ。さらに、郷土史家・芳賀善次郎氏をはじめ多くの郷土史家の方々も、同様の指摘をされている。

 上の空中写真は、空襲から2年が経過した高田馬場駅。一面の焼け野原のままだが、現在のBIGBOX裏の親父が下宿していた建物は、かろうじて焼け残っているのが見てとれる。こんな戦争の惨禍は二度とゴメンだ・・・との想いを込めて、「平和の女神」像は駅前広場に設置されたはずなのだが、それがこうも長く、また頻繁に不在となっているのはなんとも情けなく、また不安な世の中になったものだ。
 高田馬場という地名はもちろん、こういう街のメルクマールをイイ加減かつテキトーに扱ってはいけないのだ。駅名に引きずられて住所表記も変わってしまったけれど、「タカダノババ」なんて、どこにも存在しない架空のいかがわしい駅名じゃなく、諏訪町・諏訪神社にちなんだ「諏訪森(すわのもり)」のほうが、なんともステキじゃないか。

■写真:上左は1972年(昭和47)の「平和の女神」像、上右は1952年(昭和27)の高田馬場駅。下は1947年(昭和22)の高田馬場駅と諏訪町界隈。