さて、「怪談」シリーズの第九夜は・・・。面影橋(姿見橋)といえば、「於戸姫伝説」や「山吹の里伝説」、「昌蓮伝説」などで有名なのだが、もうひとつ、怪談の名所としても忘れちゃならない重要なスポットだ。三遊亭圓朝の『怪談乳房榎』をはじめ、四世・南北の『東海道四谷怪談』、上方落語を江戸落語になおした『らくだ』(これは笑怪談)など、枚挙にいとまがない。それほど、江戸期には田園風景が拡がる、みどり深く寂しい場所だったのだ。
 面影橋の北にある南蔵院は、絵師・菱川重信が“雌竜雄竜”を描く仕事をして、『怪談乳房榎』の舞台となった寺だが、重信殺しの現場となったのは下落合の落合土橋(下落合駅前にある西ノ橋といわれている)または田島橋あたり。師匠の妻とできてしまった弟子・磯貝浪江が、じゃまな菱川重信を下落合名物の蛍狩りに連れ出して惨殺してしまうという、なんとも血なまぐさい話だ。『怪談乳房榎』は、角筈の熊野十二社(そう)や名物の滝、落合の蛍狩り、山吹の里に面影橋(姿見橋)など、新宿北西部の観光名所案内のような怪談噺なのだが、実際に存在する「現場」が織り込まれているので、妙にリアリティがあって気持ちが悪い。歌舞伎でも上演されて、因果応報のおどろおどろしい舞台が印象的だ。
 そして、くだんの『東海道四谷怪談』。これがまた、なんともおかしな話なのだが、雑司ヶ谷四家(四谷左門町ではない)で殺した於岩と小平(ときに宅悦)の死骸を戸板の両面に打ちつけ、面影橋(姿見橋)から神田上水へドボンと放り込む。放りこんだとたんに、随所で昼夜を問わず巡回していた水道番に捕まってすぐにも死罪となりそうなのだが、そんなことにはならないのが芝居の世界。江戸期、神田上水は洗濯はおろか、水遊びや魚採り、野菜や手を洗っても水道水を汚したとして即しょっぴかれていた時代だ。そして、舞台を四谷左門町に設定してしまったりすると(実際にそのような映画や舞台も多いのだが)、もっとやっかいなことになる。民谷伊右衛門と直助権兵衛はエッチラオッチラ、面影橋(姿見橋)まで運んできたことになる。
 四谷左門町から高田まで、「はい、ごめんよ。戸板の死骸が通るよ。気持ち悪いよ。はい、ごめんよ」・・・と、落語の『首提灯』よろしく言いながら、直線でさえたっぷりと4km近くはある距離を、えんえんと重たい“荷物”を運んだことになってしまう。夜間とはいえ「オレたちが犯人なんです」・・・と、自身番や木戸番に触れ回って歩いているようなものだ。やはり、舞台は雑司ヶ谷四家(谷)にしといたほうがよさそうだ。しかし、いずれにしてもこのふたり、いったいなにを考えているんだろう。水道番に見つかる危険を犯して、なんとか神田上水へドボンと放りこんでも、椿山下関口の大洗堰ですぐにもひっかかることさえ先読みできない、もうアタマが悪いとしか思えないこのふたり。でも、死骸を打ちつけた戸板は、なぜか大川を超えて“無事”、砂村の隠亡堀までスムーズに流れくだってゆくのだった。
 

 『らくだ』の早桶がわりにした菜漬樽の底が抜けるのも、この面影橋(姿見橋)あたり。江戸時代からある落合の火葬場へ、「らくだ」の死骸を背負っていく途中のことだった。こうしてみると、噺家や狂言作者は、姿見橋あるいは俤(面影)橋Click!という名称を切絵図(地図)で見つけると、「橋名の風情がいいから、なんとか噺(芝居)に活かしたい」・・・と思ってしまうらしい。
 そういえば、わたしが子供のころ、『面影橋から』なんてフォークソングもあったっけ。

■写真上:左は1970年代の面影橋、右は明治期の面影橋。神田上水(神田川)は護岸浚渫工事がなされておらず、江戸期の風情そのままだ。
■写真下:左は『東海道四谷怪談』、伊右衛門は十五代目・市村羽左衛門、宅悦は四代目・片岡市蔵、小佛小平は六代目・尾上梅幸。右は『怪談乳房榎』、下男・正助は二代目・実川延若。(戦前)