太平洋戦争の直前、1935年(昭和10)すぎに始まった改正道路(環状6号線/山手通り)の工事は、日米開戦を挟んで中断された。戦後すぐに撮られた空中写真では、早稲田通りと交差する現在の東京メトロ東西線・落合駅あたりまで、砂利を運ぶトロッコの軌道らしいものが写り、拡幅工事に着手していたのがわかる。
 目白文化村のまん中を、貫通するように計画された環状6号線の敷設は、旧・下落合3丁目から4丁目の住環境に大きな影響を与えた。空襲による大きな被害とともに、ひとつのトポスとしての「目白文化村」が、戦後にかけて崩壊していく決定的なきっかけとなったのだ。旧・箱根土地の本社屋を解体して敷地をぶち抜き、第一文化村と第三文化村、さらに第二文化村と第四文化村を東西に分断して、山手通りは南(東中野方面)へ向けて造成されていった。

 同時期に開発された田園調布が、幹線道路の影響を受けずに、現在までその面影や風情をよくとどめているのに対し、環6の目白文化村や環7が貫通した洗足分譲地界隈は、大きくその姿を変えることとなった。さらに、目白文化村は1960年代後半、放射7号線(十三間通り/新目白通り)によって、今度は第一文化村と第二文化村をまっぷたつに分断され、もはや開発当初の面影を探すのが難しくなるほど、その街並みは大きく変容していった。

 以前にご紹介した、第二文化村南東斜面(通称・翠ヶ丘/赤土山)Click!の写真だが、山手通りの工事が始まる直前、右手に広がる六天坂の丘上を写した写真が手に入ったので、連続写真風にして構成してみた。熊倉医院Click!前の、右手(北側)からつづく細い道が、のちに山手通りとして拡幅されることになる。

■写真上:左は、開通直後の山手通り。(方向①) 1950年(昭和25)前後の撮影と思われる。バックに見える切通しが、翠ヶ丘を切り拓いたもの。左手に見える坂は、第二文化村の丘上へと抜ける「一ノ坂」。このあたりから中井駅にかけ、規模の大きな古墳時代の鍛冶場跡(中井遺跡)が発見された。右は、工事中の山手通り。(方向②) 中井駅上の陸橋が完成しているので、戦後の工事再開時の写真だろう。左手下が中井駅で、前方に見える風景は東中野方面。
■写真下:六天坂上から眺めた、山手通りの工事が始まる直前の様子。(方向③④) 昭和初期のころと思われる。④の画角中央のバンガロー風の建物は嶺田邸、その向かいは安東邸と思われる。左手の道をまっすぐ進むと、第二文化村をかすめて第一文化村へと抜けられた。
「目白文化村」サイトClick!