「下町」というのが、せっかちな江戸っ子らしく「御城下町」を略したものであることは、あまり知られていない。現在は、おもに東京の西北部、山手線の内外周辺に展開する武蔵野の丘陵地帯、おもに明治~大正期に開かれて華族やおカネ持ちの邸宅が並んだ「新山手」に対する、反対語のようにつかわれてしまっているが、もともとは御城下(千代田城下)の町・・・という意味だった。つまり、武家が多く住んだ現在の山手線内「旧山手」の町も、実は当初「下町」だったことになる。
 大坂(阪)から江戸へ出てきた戯作者の西沢一鳳という人は、江戸で話される地名の規定に興味をもったらしく、「江戸前」という地域の規定を、「大川より西手、御城より東手」としている。(『皇都午睡』) だが、それを受けた三田村鳶魚は、「知れなかったから穿鑿して了解したのであらう。(中略) 明白に請取れる解説でない」と一蹴している。
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 江戸前は即ち下町のことである。同じ地域を江戸前とも下町ともいふのだが、この二様の称呼は対語として発生した。この御城下町を下町といふのである。その御城下町は後来江戸市街の膨張のために、品川から板橋まで軒続きになつては、なかなか見渡しただけでは見別けられない。(中略)本所深川も享保から江戸町奉行の支配になつてゐる。江戸前や江戸向といふ言葉が自然地理にも行政地理にも使用されなくなつて、その意義が段々知れなくなつたのに、別な意義から江戸前が権威ある言葉になつて来た。それは何故だろう、他でもない、鰻からである。
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 ・・・と、「江戸前」と「う」は直結してしまうことになるのだが、「江戸前」の規定はともかく(先日の水産庁の「江戸前」規定は、ずっと新しい大正期以降のものだ)、「下町」とは御城下町、尊称をつけなければ城下町がちぢまったものという伝承が、幕末~明治期まで存在していたのがわかる。でも、江戸の後期からは、「下町」に対する反対語としての「山手」(やまのて=丘陵地帯の武家屋敷街)という表現も、併せてつかわれているのが寛政前後の文献にみえている。

 ちぢめた言葉がひとり歩きしてしまうこの現象は、江戸時代を通じて随所に見える。たとえば「水道」。ふつう江戸東京では「すいど」と発音する。土地っ子が「水道橋」を読むときは、「すいどばし」だ。「江戸っ子は すいどの水で 産湯つかい」と川柳にも詠まれていたのだが、江戸後期には「す」さえも省かれて「いど」と呼ばれることが多く、市中の暗渠となった水道管に通じる竪穴を、地下水をくみ上げる「いど=井戸」と混同して書かれてしまうことも多かった。江戸期の町場に、飲料水としての井戸は基本的に存在していない。例外的に深く掘られた、白木屋の井戸がしょっぱくなく真水だったからこそ、評判を呼んだのだ。水道と書いて「いど」と読ませるのが正解だろう。
 また、山手も「やまのて」が縮まって、単に「のて」と省略して呼ばれるようになった。明治から大正にかけては、「之手」あるいは「乃手」などと書かれた本もあるので、東京の省略言葉を知らないと、いったいなにが書かれているのか意味がわからないことになる。年寄りには、いまでも山手のことを「のて」という人がけっこう残っている。同様に、朱引き・墨引きの拡大とともに拡がった、江戸後期の市街は「大江戸」と呼ばれるようになるが、ちぢめて「おえど」と発音する。これも言葉がひとり歩きして、いつの間にかおかしな敬称つきの「御江戸」となってしまった。墨引きの内、染井に発した植木・鉢植え文化が花開いた、江戸後期=大江戸の街辻を「花の御江戸」としたんじゃ、話がおよそ通じにくかろうに・・・。
 行政区が35区の大編成になった昭和初期、東京は大江戸にならって「大東京」と呼ばれることが多くなった。戦前の地誌本や観光案内、地図などもみんなそろって「大東京」と銘打っている。※ でも、「おとうきょう」とも「だとうきょう」ともちぢめられず、「だいとうきょう」と呼ばれていたのは面白い。案のじょう、ちぢめて読めないまだるっかしい言葉は定着せず、いまや「だいとうきょう」なんて呼ぶ人はほとんどいなくなってしまった。

※そういえば、「銘打っている」という刀剣用語Click!も現役でつかわれていましたっけ。
■写真:現在の「山手」と「下町」の街角イメージ。上は昭和初期に流行ったスパニッシュ(麻布山)、下はおそらく震災後大正期の表店=商家(築地)。