お盆も終わり、そろそろ精進落としの大川花火大会も近いので、暑気払いのため試しに「怪談」シリーズでもやってみたい。といっても、ほんとの怖いお話は京極さんたちにお任せし、ちょっと異なる趣向で書いてみたいと思う。第一夜は、もちろん怪談でもっともポピュラーな「四谷怪談」から・・・。

 四世・鶴屋南北の『東海道四谷怪談』は、史実としてのお岩さんが実際に住んでいたところ、すなわち於岩稲荷が四谷左門町にあるものだから、四谷が舞台だと思われている方が多い。でも、台本を読めばすぐに気づくのだが、四世・南北が舞台に選んだのは新宿区の南、大木戸のあった四谷ではなく、目白の「四谷」が舞台。同じ四谷でも、シナリオで民谷伊右衛門が婿入りしてきたのは雑司ヶ谷四家(谷)町※、現在の千登世橋から目白台あたりにあった町だ。物語と史実がゴッチャになり、『東海道四谷怪談』は中央線沿いの四谷の話だと思っている方、ぜひ原典を読むべし。
※CLSさんより、「高田村四家(谷)」が正確な表記だというご指摘をいただきました。わたしは、現在の地名に引きずられた表現をしており、詳細はこちらの記事Click!のコメント欄をご参照ください。
 「東海道」も、現在では「とうかいどう」と読まれているけれど、初演のチラシにはわざわざ「あづまかいどう」とルビがふってある。諸説あるが、当時「東海道」の一大ブームがあり、ベストセラーになった十返舎一九『東海道中膝栗毛』にあやかって客寄せに東海道と冠をつけ、物語が街道筋に関係ないものだから「あづまかいどう」としたのだろう・・・という見方が多い。いずれにしても、数ある幽霊話の中でももっとも有名で人気のある「四谷怪談」の舞台は、神田川沿いバッケ(目白崖線)上の丘陵地帯に設定されたのだった。
 さて、では実際の江戸時代文政期に生きていた、御先手組同心・田宮又左衛門氏のひとり娘・田宮岩(いわ)さんは、目白に縁のあった女性かというと、これがまったく関係がなさそうなのだ。芝居や映画、講談、落語などとは異なり、婿入りして田宮姓を名乗った伊右衛門さんは、お岩さんと性格がまったく合わずに、少しずついたたまれなくなっていったのが記録(町方書上)に見える。だが、「人愛も在之、物事器用ニ而、組内気請能ク、同組与力伊藤喜兵衛儀別而入魂ニ致し・・・」と、性格がよくて人当たりもやわらかく、職場の組内へよく溶け込み、上司の請けもたいへんよかった伊右衛門さんは、なかなか妻に離縁を切り出せなかったらしい。でも、ついにジッと我慢にも限界がきて、わざわざ「仲人」を立てて離婚の調停となる。
 お岩さんと離縁したあと、伊右衛門さんは改めて他家へと婿に入り、子供も産まれて夫婦仲睦まじく暮らすのだが、それを聞いたお岩さんは気に入らず嫉妬に狂ってしまった。新しい伊右衛門夫婦宅の門前へやって来ては、近所じゅうに聞こえるよう大声でののしったりもしたようだ。お岩さんのストーカーぶりに弱り果てて、伊右衛門さんが自身番(当時の交番のようなもの)へと訴え出たので、詳細な「町方書上」(捜査記録)が残ることになった。おしなべて、調書は被害者の伊右衛門さんに好意的で、加害者であるお岩さんの性格は、めちゃくちゃ悪く書きとめられている。「同人(いわ)儀、年丈ケ重キ疱瘡相煩ヒ、片眼盲シ、勝れて醜婦、殊ニ性質頑クネニ付、養子ニ可参者も無之処・・・」と、もう彼女はボロクソに書かれている。
 この事件に町方(町名主や差配)が乗り出したからか、お岩さんのストーキングは止んだようだが、強い嫉妬心からだろうか、とうとういまでいうノイローゼに近い症状になってしまったようだ。元夫の伊右衛門さんが幸せに暮らしている風聞を耳にするにつけ、精神的にかなり不安定になっていったのだろう。彼女が、最後に目撃されたときの状況を、町方の調書ではこう記録している。
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 岩(いわ)聞請嫉妬心募り、鬼女之如く相成狂乱致し、其儘屋舗を欠出し、伊右衛門居宅近辺マデ罷り越し候得共、西之方ヘ走り行、終ニ其行衛不相知・・・(新宿区所蔵『文政町方書上』より)
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 お岩さんは怒り狂って、再び伊右衛門宅へ押しかけようとしたようだが、なぜか気が変わって大木戸のある西の方角へ駆けていったまま、ついに行方知れずとなってしまった。その後、伊右衛門夫妻に不幸がつづいたので、「お岩さんの祟りさね」という噂が四谷じゅうに流れた。もう、踏んだり蹴ったりの伊右衛門さんなのだ。町方でも捜索したようだが、とうとう彼女は見つからず、どこかで死んだのだろうとされた。

 「忠臣蔵」Click!でも書いたが、実話が芝居に取り上げられると、被害者と加害者がそっくりそのまま正反対に入れ替わってしまうことが多々ある。病気がちで弱々しく、目白に暮らした(と設定された)とびきり美人な『東海道四谷怪談』のお岩さんよりも、四谷左門町に住んでいた気性が激しく、意固地で頑なな実際のお岩さんのほうが、とても人間的な魅力にあふれていてわたしは好きだ。

■写真:左はいわゆる「於岩稲荷」。お岩さんのことを書くので、お参りしときましょ。右は「隠亡堀戸板返しの場」で、民谷伊右衛門は十五代目・市村羽左衛門、直助権兵衛は二代目・市川左団次。(戦前) 
■絵図:雑司ヶ谷の四家町(四谷町とも/矢印)あたり。1857年(安政4)の尾張屋清七版「雑司ヶ谷音羽絵図」より。(右側が北/部分)