戸山や戸塚南部にくらべ、空襲で地表面が露出した1947年(昭和27)の空中写真を観察しても、戸塚北部や高田(たかた)界隈にはサークルの痕跡がほとんどない。もともと、神田川(神田上水)が極端に蛇行する常習的な氾濫地帯だったせいか、目白崖線(バッケ)下の平地が広くひらける高田には、古墳が造りずらかったのかもしれない。現在の山手線をはさんで、下落合・上落合側がそこかしこに正円形の地表が観察できるサークル密集地帯なのにくらべると、東側はまったく対照的な地表面のように思う。
 唯一、明らかに人工的だと思われる直径80mほどの巨大なサークルの痕跡が、現在の甘泉園公園のバッケ上、戸塚第一小学校の真裏に見えている。ちょうど、いまの公務員住宅が建っているあたりだ。この写真では、まだ水稲荷社は毘沙門山隣りから移転(1963年/昭和38)してきてはおらず、富塚古墳(前方後円墳)の上に築かれた高田富士の頂上部分の溶岩も、まだ引っ越していない。戦前には相馬邸の庭園だった面影がそのまま残っているが、この写真が撮られた時期には、すでに早稲田大学の所有地となっていたのかもしれない。
 戸塚一小の西側には、以前に「バッケ下」の地名でご紹介した、「赤門さん」で有名な亮朝院Click!のある道が南北に伸びている。この道を北へ向かうと下って面影橋へと出るが、亮朝院の西側に拡がるバッケ下にも、直径50mほどのサークルが顔をのぞかせている。また、神田川をはさんで高田側には、ほとんどサークルらしきものが見当たらない。

 唯一、金鱗堂・尾張屋清七版の切絵図に採集された、旧・肥後藩細川家下屋敷(現・新江戸川公園)のバッケ上にあった「鶴塚」と「亀塚」だが、昭和初期の空中写真でも戦後すぐの写真でも確認できない。下屋敷の敷地から清戸道(目白通り)へはみ出すように描かれた塚ふたつだが、新江戸川公園から椿山(荘)にかけては、幸いに戦災をまぬがれて焼け残っているので、地表面を観察することができない。この大名屋敷の回遊式庭園にあった鶴山亀山が、実は池を掘り起こした土などではなく、円墳の築山をそのまま利用していたケースは別に珍しくなかった。次回は、その具体例を挙げて検討してみたい。
 では、下戸塚町の北部から高田、目白台から椿山あたりにかけての、大きなサークルClick!を観察してみよう。

■写真:清水徳川家下屋敷(江戸期)→相馬邸(戦前)→早稲田大学(戦後)と変遷した、1947年(昭和27)当時の上空から見た現・甘泉園公園の南側。現在、公務員住宅と水稲荷社の参道となっているあたりに、大きなサークルが露出しているのが見える。