ここに、1枚の踏み切りの写真がある。1955年(昭和30)に撮影された、西武新宿線の高田馬場駅から下落合駅にかけてのいずれかの踏み切りだ。まだ、戦後10年しかたっていないせいか、右側に進駐軍用の「RAIL LORD CROSSING/STOP」と書かれた英文標識が残っている。正面には団地のような建物が見え、その左横には砒素ミルク中毒事件で揺れていた当時の「森永牛乳」の看板、さらに左手には工場か銭湯の高い煙突が見えている。でも、この踏み切り位置で左手に銭湯の煙突が見えるポイントは、当時もいまも存在しないはずだから、おそらく染色工場か薬品工場などの煙突なのだろう。
★その後、1955年現在の「高田馬場2号踏切」だと判明Click!した。写っている建物は、東一製綿工場や電電公社1~2号アパート、三宝製薬工場、引間邸など。
 前方に目白崖線(バッケ)が見えないところから、おそらく現在の十三間通り(新目白通り)側から南側(下落合1丁目)を望んだ風景だと思われる。だから、正面の建物の向こう側には神田川が流れているはずだ。また、踏み切りから向こう側へとつづく道が、すぐに右手へカーブしているように見える。直線ではなく、踏み切りを渡ると右へ曲がるように見える道がつづくポイントは、高田馬場駅から下落合駅までの間には3箇所ほどしかない。でも、その3箇所をよくよく観察しても、もはやどの踏み切りなのかが判然とはしないのだ。
 左すみに写る黒板塀の民家が取り壊され、十三間通りとその8m歩道の下になってしまったとすれば、上の写真の踏み切りは、神田川の田島橋と清水川橋のちょうど中間にあたる下の踏み切りということになる。このまま踏み切りを渡って進むと、いまは右手にはエステー化学本社がある。

 1955年当時としては、左手の煙突は市村会社、正面の団地のような建物の右手には三越の大きな染色工場があったということになる。だが、あまりの風景の変わりように確定ができないのだ。下落合駅の踏み切りも、渡るとすぐに右手へとカーブしているが道の広さが違う。また、田島橋へと抜ける踏み切りの東にも小さな踏み切りがあったのだが、左すみに家の建つスペースはなかったはずだし、現在では廃止されてしまった。そう、踏み切りの廃止は1960年代以降かなり大胆に行われていて、いまでは存在しない踏み切りの可能性もある。
 空襲を受けた神田川沿いの下落合1丁目界隈だから、ことさらわかりにくいのかもしれないが、わずか50年前の風景だというのに、場所の特定がまったくできない。「最近は、東京に20年いないと風景が丸ごと消えている」・・・という表現を、誰かの小説で読んだ憶えがあるが、比較的に変化が緩慢な山手でも、最近ではそうなりつつある。ましてや、50年前の風景など、もはや誰も憶えていないのだろうか?