下落合の崖線(バッケ)下、妙正寺川や神田川の近辺には、大勢の文士たちが住んでいた。その多くは、アナルコ・サンディカリズム(アナーキズム)や社会主義/共産主義のいわゆる「左翼作家」たちだった。1928年(昭和3)に日本プロレタリア芸術連盟(プロ芸)と前衛芸術家同盟結成(前芸)が合体して結成された、全日本無産者芸術連盟(Nippona Artista Proleta Federacio=通称ナップ)の本部も、上落合に存在していた。
 だが、下落合から神田川をもう少しさかのぼり、小滝橋の南あたり一帯、当時の淀橋町柏木から大久保百人町にかけては、より古く明治期から日本史でおなじみの社会主義者たちが数多く住みついていた。幸徳秋水、堺利彦、荒畑寒村、石川三四郎、福田英子、守田有秋、森近運平、山川均、南助松、大内兵衛などだ。また、無教会派のキリスト者・内村鑑三などもいて、近くには大杉栄と伊藤野枝も暮らしていた。一方、片山潜など議会を通じて変革を起こそうとする人々は、なぜか本郷界隈にまとまって住んでいた。彼らは官憲から、その地名をとって「柏木団」と「本郷団」と名づけられていたようだ。
 このほかにも、いまからは想像もつかないが、町内を少し歩けば歴史本に登場する「有名人」たちがひしめいて暮らす、柏木~大久保~戸山~落合界隈は、さながら日本近代史の思想家や文士の密集地帯といったありさまだった。『地図で見る新宿区の移り変わり/淀橋・大久保編』(新宿区教育委員会)の巻末に収められた、経済学者・大内兵衛(岩波『資本論』の訳者)の息子である、同じく経済学者の大内力(つとむ)の書いた『百人町界隈』には、実に数多くの社会主義者/共産主義者、さらには作家たちの名前が挙げられている。そんな街角で内田百閒は、ある1軒の家から出てきた夫婦連れを目撃する。1923年(大正12)9月16日、震災から半月後のことだった。
 地震の直後から、「巣鴨監獄から囚人が集団脱走した」、「武装した朝鮮人が攻めてくる」、「小石川砲兵工廠で毒ガス漏れ」、「無政府主義者が革命を企てている」など根も葉もないデマが、市街地の80%が壊滅した横浜から東京にかけて席巻した。そのデマの伝わり方、増幅のされ方は、横網町の震災復興記念館や、吉村昭『関東大震災』(文藝春秋社)に詳しい。日常的に醸成されていた偏見や差別意識、恐怖感、忌避感などが、大震災のパニック下で一瞬のうちに切迫した「被害者意識」と、「スケープゴート探し」の憎悪へと転化したのだ。
 16日朝、内田百閒が目撃したのは、自宅を出て川崎にいる弟の大杉勇宅を見舞おうとする、大杉栄と伊藤野枝だった。内田は気づいたかもしれないが、彼らの背後には憲兵大尉・甘粕正彦の部下である憲兵上等兵・鴨志田安五郎と、淀橋署の刑事たちが尾行していた。のちに甘粕は、最初から地震のドサクサにまぎれて殺害する意図を抱いていたことを供述している。

 午後6時前後、自宅付近で果物を買っている大杉栄と伊藤野枝、そして甥の橘宗一(6歳)に甘粕が近づき、その場で拘束。その日のうちに「ヤラナケレバならぬ」(陳述書)と、3人を次々に絞殺した。6歳の宗一も、口封じのため「手で子供の咽喉を絞めて倒し、その後細引を首に巻きつけておきました」(予審聴取)と殺した。
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 大杉らの死体は、すべて裸にされ菰にくるまれ、麻縄で縛られていた。甘粕大尉は、死体を自動車で運び出し川へでも遺棄しようとしたが、隊門はすでに閉ざされているので、火薬庫近くの古井戸に投げこむことに決意した。
 森、鴨志田、平井、本多の四名が遺体を運んで古井戸に投げこみ、瓦礫や馬糞でおおい、翌朝作業員に命じて土をかぶせさせた。
 衣類、所持品はすべて自動車で築地の逓信省跡に運び、焼却した。(吉村昭『関東大震災』より)
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 その後、事件はすぐに発覚してしまうが、陸軍当局はかなりあとまで、「憲兵司令官及び憲兵隊長の停職並に甘粕大尉の軍法会議に付せられたる事件の記事差し止め/社会主義者の行衛不明其の他之に類する一切の記事掲載差止め」と隠蔽工作をつづけている。だが、軍法会議の開催とともに、詳細が次々と明らかになっていった。子供を殺したのは誰かで、その後法廷は紛糾することになる。誰もが「知らない」と、責任のなすり合いが始まった。
 地震によるデマの拡がりは、別に関東大震災に限ったことではない。1980年代に静岡県の伊豆を中心に発生した群発地震では、「もうすぐ震度5以上の地震が起きる」というデマが街じゅうに拡がり、企業や商店、学校、公共施設、交通機関など社会機能がマヒし、パニックになった事例がある。NHKのドキュメンタリーで、デマの発生源を追跡していたが、たどりついたのはなんと市役所に勤務するひとりの職員だった。「しばらく余震があるかもしれない。ただし、震度5以下だろう」という趣旨の1本の電話が、街中を伝播するうちに「もうすぐ震度5以上の地震が起きる」という市役所からの「警報」に変節していったのだ。震災のパニック状況下では、言葉がいともたやすく捻じ曲げられ、まったく正反対の意味へとすりかえられていく。さらに、フレームアップや意図的に流すデマゴギー、体制にとって都合の悪い人間を抹殺する素地がうまれる。
 関東大震災では、千駄ヶ谷に住む伊藤子爵邸の息子が、「朝鮮人暴徒」として拘束されて危うく「自警団」に殺されそうになった。首都圏で殺された朝鮮人・中国人は、5,000人とも6,000人ともいわれている。彼、伊藤圀夫は、一連の虐殺事件を目の当たりにして激しい怒りにかられ、自らを「千駄ヶ谷コリアン」と名乗るようになる。当時、築地小劇場で演出や俳優をしていた彼は、関東大震災時に経験した虐殺を生涯許せず、のちに俳優座を設立して芸名を「千田是也」と名乗った。

■写真上:「朝鮮人の凶暴や、大地震が再来する、囚人が脱走したなどと言伝えて処罰されたものは多数あります。時節柄皆様注意して下さい」。街中に貼られた、警視庁のビラの文面が空しい。厳正に「処罰されたもの」は、いったいどれだけいたのか?
■写真下:大杉栄と伊藤野枝が住んだ、淀橋町柏木(JR大久保駅近く)のあたり。いまはマンション街となっている。