以前、一勇斎(歌川)国芳の「狸と夕立」Click!について書いたとき、玄冶店(げんやだな)のいわれについても少し触れたけれど、もうひとつ、古くは新和泉町または堀留町(現・日本橋人形町3丁目)と呼ばれたこの界隈、人形町の交差点から堀留町の方向へ歩いていくと、右手に寄席の「末廣亭」があった。1970年(昭和45)に廃業してしまうが、それまではこのあたり、江戸期からつづく一大娯楽地帯だったのだ。

 まず、千代田城の建設が本格化するころ、神田山の土砂で埋め立てられたこの日本橋人形町の一帯は、一面に葭(よし)が茂り「葭原」と呼ばれていた。そこへ、江戸市中にあった3箇所の遊郭(常磐橋/糀町/鎌倉河岸)を集めて、幕府公認の歓楽街が造られることになった。1617年(元和3)から工事が始まり、およそ二町四方(218平方メートル)が当初は「葭原」、やがて「吉原」と呼ばれる遊郭ができる。1642年(寛永19)には125軒の遊郭がならぶようになる、「旧吉原」の誕生だ。
 やがて、吉原に隣接する禰宜町(ねぎまち=堀留2丁目)に、歌舞伎の中村座(座元・中村勘三郎)がオープンする。つづいて中村座の並びに、今度は市村座(座元・市村竹之丞)が櫓(やぐら)を設けた。二座の周囲には、浄瑠璃座や人形操座(あやつりざ)などが集まり、江戸初期における最大の歓楽街となっていった。ちなみに、市村竹之丞は中村勘三郎の門弟だが、旧形式の中村座の芝居とは異なり、つづき狂言や芝居の道具立て、引幕などにも凝った“大芝居”を興行するようになる。現在、いわゆる「歌舞伎」と呼ばれる演劇は、この市村座の芝居形式がルーツとなった。
 せっかく賑わった吉原界隈なのに、1657年(明暦3)の振袖火事で炎上すると、同じ吉原の地へ再興が許されず、吉原遊郭は丸ごと、当時は片田舎だった浅草田圃(たんぼ)の真ん中へと引っ越すことになる。吉原の地名はそのまま引きずられ、田畑の真ん中にポツンとできた遊郭は「新吉原」と呼ばれるようになった。こうして、玄冶店のあった新和泉町界隈は、主に芝居小屋がひしめく芸能町となり、浄瑠璃座や操座などの人形を作る職人たちも集まって、しだいに「人形町」と呼ばれるようになっていく。

 だが、日本橋があまりに千代田城に近かったため、町人たちの遊興街が近くにあるのを嫌った水野忠邦は、1841年(天保12)の改革で、歌舞伎座も人形操座も浅草の猿楽町へ強制的に移してしまった。旧吉原の賑わいをあきらめきれない地元の人たちは、遊郭でも芝居小屋でもない、第3の娯楽=寄席の誘致を始める。天保の改革のあと、大江戸の寄席は400軒近くを数えていた。そして、幕末から明治にかけて、このあたりには人気の寄席がひしめくことになる。玄冶店近くの「末廣亭」も、そんな寄席のひとつだったのだ。
 

 さて、この「末廣亭」のあった玄冶店あたり、江戸の裏店(うらだな=裏長屋)のような雰囲気を想像したら大間違いで、一戸建てが並ぶ比較的“高級”(といっても、広さはたかが知れてるが)借家街だったようだ。わたしの好きな通油町の長谷川時雨Click!は、父親(長谷川渓石)から玄冶店の様子を聞いて、『旧聞日本橋』へわざわざ書き留めている。幕末には、ここへさまざまな芸術家たちが集まっていた。そして、寄席「末廣亭」跡へと向かう途中の瀬戸物屋のある横町(いまもあったかな?)が、「お富さん」の住んでいた場所なのだ。
 「え~ご新造さんへ、・・・おかみさんへ、・・・お富さんへ、いゃさお富、久しぶりだなあ」、「そういうお前は?」・・・と、三代目・瀬川如皐(じょこう)の『与話情浮名横櫛』(よわなさけ・うきなのよこぐし)は、あまりにも有名な芝居。玄冶店(芝居では源氏店)へ、3年前に別れた妾暮らしのお富を「しがねぇ恋の情が仇(あだ)」と、蝙蝠安(こうもりやす)と一緒にゆすりにやってくる「切られ与三」は、1853年(嘉永6)に中村座において、八代目・団十郎と四代目・菊五郎のコンビで初演された。この芝居も、実際にあった事件をベースにしていて、「おとみ」さんは実在した女性だ。ただし、芝居のお富役が実話ベースでは「お政」さんで、「おとみ」さんはその娘ということで記録されている。「おとみ」が「富」という字を当てたかどうかは、さだかでない。

 いまの玄冶店は、まったく様変わりしてしまって、昔の面影はゼロだ。子供のころに歩いた記憶は、まったく通用しなかった。吉原が消え、芝居小屋も消え、やがて寄席も消えたにもかかわらず、その昔漂っていたどこか玄人好みのする粋な街の雰囲気は、もうない。でも、ポツンポツンと子供のころ見たであろう家々が、まるで忘れ去られたように残っている。

■写真上:人形町に残る、わたしが子供のころの表店(おもてだな)。
■図絵:上は金鱗堂・尾張屋清七版切絵図「日本橋北・内神田・両国浜町明細図絵」(1859年・安政6版/部分)。下は長谷川雪旦『江戸名所図会』の「堺町葺屋町戯場」より。(部分) 大屋根は、「中村座」(右)と「市村座」(左)の芝居小屋。
■写真中:左は、1955年(昭和30)前後の玄冶店。女の子の右手に写る、「喫茶・メルシー」に寄ってみたいものだ。突き当りのパチンコ屋があるのが、人形町の大通り。右は、逆に大通り側からいまの玄冶店方向を見る。奥の通りが元吉原のあったエリア。
■写真下:「源氏店の場」で、右は七代目・尾上梅幸の「お富」、左は九代目・市川海老蔵の「与三郎」、蝙蝠安は不明。(1948年の梅幸襲名披露の舞台か?)