田島橋は、神田川にかかる橋の中でも意外に古い橋だ。板橋が土橋に架けかえられたのは、江戸期の1791~92年(寛政3~4)となっているが、それ以前から板橋が架けられていたことがわかる。地図は残っていないが、落合丘陵下を貫く鎌倉街道の道筋がついた時代から、すでに橋は存在していたのかもしれない。そのころの橋名は、もちろん「田島橋」ではなかった。単に、「川橋」とか「畝橋」と呼ばれていたのだろうか。
 では、田島橋となった謂れについて、金子直德という雑司ヶ谷に住んだ人が、寛政年間に著した『和佳場の小図絵』(わかばのこずえ)から引用してみよう。
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 御公義普請にて板ばし成しを、寛政三年より四年の春迄に土橋になし給ふ。昔、安藤対馬守様の鼠山御屋敷より大久保原の辺に、野屋敷という御遊地ありて、狩など有し時、たじまの守様の通路に懸給ふ故、今にその名と成と也」
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 安藤対馬守が利用したのなら「対馬橋」となりそうだが、いまひとつ要領をえない記述だ。但馬守の通路に架かっていたから「但馬橋」と呼ばれるようになり、そのうち「田島橋」の字が当てはめられるようになったとのこと。寛政時代前後の但馬守には、土屋但馬守と秋元但馬守がいる。前者の下屋敷は麻布なので、この橋を利用する可能性はほとんどない。浜町の中屋敷で水心子正秀(新々刀の巨匠)を庇護していた、秋元但馬守の下屋敷は淀橋(現在の都庁あたり)だから、可能性としてはこちらのほうが高いだろうか。
※その後、安藤家では「但馬守」を受領していた時期があったことが判明し、「田島橋」の謂れは下落合の安藤但馬守下屋敷にちなんで付けられたものと思われる。
 下落合界隈の神田上水(神田川)にかかる橋の中で、田島橋はもっとも大きくて立派な橋だ。これには、大正末から昭和初期にかけて、十三間通り(新目白通り)を通す計画があったからだ。氷川神社の目の前にあった下落合駅前から、十三間通りは南へ大きくカーブして田島橋をわたり、現在の栄通りを大幅に拡張して高田馬場駅前で早稲田通りと合流するはずだった。それが、下落合駅が西へと移動Click!してしまったのと、早稲田通りの交通量が増えたため、最終的には合流をあきらめて学習院下へと貫通することになる。大きな田島橋は、十三間通り計画の名残りというわけだ。
 そしてもうひとつ、田島橋から上流の落合土橋にかけては、江戸時代に「落合蛍」の名所として有名だった。太田南畝(蜀山人)の『ひともと草』(1806年・文化3)から、田島橋付近の風情を引用してみよう。
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 大江戸には王子のふもと石神井川又谷中の蛍沢に多くありといへども、此所(下落合村)にくらぶれば及びがたかるべし。あるは若き女の川辺を団扇にて飛行光を遂ひうち、はらふけしき、瑶階の夜のすずしきにひとしく、かかる川辺にさまよひて詩をも歌をもつらねたらんはまことに命ものぶる心地やせん。
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 いまからは想像もつかない、清冽な上水(水道水)が開渠のまま流れる田島橋界隈は、そこかしこで蛍川が観られたのだろう。雑司ヶ谷の金子直德が編集した、『富士見茶屋抄』という句集が残っている。その中に、田島橋はこう詠まれている。
 田島橋の鶴
  田鶴啼や 尾花にわたる 浪の色
  かげろうに ねぶりこけるな 橋の田鶴
 神田上水の両岸に拡がる一面の田圃で、鶴が舞っていた田島橋は、いまアプラコウモリの格好の営巣地となっている。

■写真:現在の田島橋。正面に見えるあずき色の建物は、東京富士大学の本館。左手は、レトロな変電所建屋。この変電所については、改めてまた書いてみたい。
■図絵:新宿歴史博物館で所蔵される「落合惣図」(部分)。右手に見えているのが田島橋。中央上には藤稲荷社、その下には氷川明神女体宮がある。右下には妙正寺川と神田上水が落ち合う地点が描かれ、「一枚岩」の記載が見える。この「一枚岩」の位置をめぐっては、過去、地元でいろいろな議論がまき起こった。