お年寄りの中には、うなぎのことを「青」と呼ぶ人がいる。また、蒲焼き自体のことを「青」と言ったりする。ほかにも、江戸期のうなぎには「白」とか「筋」と呼ばれるものがあったようだ。でも、それが実際にどのような「う」だったのかはわからない。「青」とは、尾州の青うなぎ、または備前のハチ青うなぎのことだと後追いする人もいるが、これは明治以降に流通がひらけてから、初めて東京に入ってきたもので、江戸期はほぼすべてが江戸前のうなぎだった。
 1787年(天明7)に書かれた山東京伝『通言総籬』では、こんな会話が交わされている。主人公の艶二郎が、太鼓医者(ヤブ医者)の思庵を連れて堀江町の舟宿へ繰り出すシーンだ。うなぎ屋の亭主も、会話に加わっている。
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 思庵「うなぎをとりにやりは」
 艶二「どうだらうといふ事か、もういぢめるの」
 亭主「青か白」
 思庵「やぱり筋を長やきの事さ」
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 山東京伝は、わざわざこの会話に註釈をつけて、「青、白、筋、みな鰻の名なり、鰻食ひのつう言なり」と書いている。「筋」を「長やき」、つまりうなぎを裂いて長いまま蒲焼きにするという記述だが、それがどのようなうなぎなのか、いまとなってはわからない。ひょっとすると、うなぎが獲れた大江戸の川筋によって、名前を呼び分けていたものか。
 ところが、お年寄りが(親父もそうだったが)うなぎのことを「青」というのは、この京伝の『通言総籬』に由来しているからではない。それは、1928年(昭和3)に東京劇場の10月興行で初演された、六代目・尾上菊五郎の『人情深川祭』にうなぎを食うシーンが登場するからだ。この芝居の主人公は、江戸後期に実在した鼠小僧次郎吉。次郎吉が、近所の貧乏な三吉という子供を連れて、深川八幡前の「う」へと出かけるシーンがある。六代目・菊五郎は、台詞に徹底的にこだわる凝り性の人だったらしく、見世へ出かけてうなぎを誂えてもらうのに、「うなぎを焼いてくれ」じゃぶざまだ。なんとかカッコいい台詞はないかということで、六代目は脚本家に相談した。

 さて、ここでうなぎの「青」と下落合が直結してしまうことになるのだが、この芝居の作者が当時、下落合617番地に住んでいた、先にも書いた“光波のデスバッチ”で劇作家の松居松翁Click!だったのだ。松翁は六代目から相談を受け、悩みに悩んだ末に京伝の『通言総籬』へとたどりつく。そこに意味不明な「青、白、筋」という、うなぎ食いの「つう言」を発見して、さっそく台本に取り入れることにした。「う」に立ち寄った六代目の次郎吉は、「おやじ、青の長やきを二人前、持ってきて呉れ」と、イキに注文することになる。
 昭和初期、この芝居を観た人は、さっそく「う」へ寄って「青の長やき」を注文したのだろう。うなぎ屋の亭主は、最初はなにを注文されているのかわからなかったかもしれないが、それが単に蒲焼きのことだと知れてから、「おう、親父、青の長やきと酒だ」というような客の言葉は聞き流すことにして、なんの変哲もないふつうの蒲焼きを出していたに違いない。

■写真上:目黒不動の門前「八ツ目や・にしむら」のうまい「青」。天然八ツ目は11月ごろから。
■写真下:1955年(昭和30)ごろの深川八幡(富岡八幡)。境内から八幡前方面を望む。