絵のタイトルは「風景」、この作品には「下落合」が付かない。でも、わたしは佐伯祐三のアトリエがある近所でスケッチした作品だと思うのだが・・・。今回の「佐伯祐三-芸術家への道-」展では、モノクロの絵葉書のみが展示されただけで、作品自体をじかに鑑賞することはできなかった。もしこの作品が近所で描かれたにもかかわらず、なぜ、彼はこの画題に「下落合」と付けなかったのか? それは、彼のスケッチポイントが下落合ではなく、当時の上落合であった点にあるのではないか。

 地形はやや右上がりのように見え、家々が建ち並ぶ前面には川が流れているようだ。左手には、コンクリート製のようなシンプルな構造の橋も見える。ロケーションが下落合近くであれば、周囲の風景や川幅、家々の様子などから、この流れは神田川ではなく支流の妙正寺川だろう。さて、この風景がどこの場所かを特定するのは意外に難しい。佐伯がこの絵を描いたすぐあとから、妙正寺川の整流化工事が始まってしまうからだ。川底が深く掘削され、コンクリートで両岸を固めた護岸工事がスタートする。それまでは、南北へ小刻みに蛇行を繰り返していた妙正寺川を、できるだけ直線にする大規模な工事だった。余談だが、この整流化工事によって、上落合の『放浪記』が書かれた林芙美子の借家が川底に沈んでいる。

 さっそく、1936年(昭和11)の空中写真を確認すると、護岸・整流化工事は、現在の神田精養軒の東側200m(旧・下落合3丁目1147番地あたり)まで進んでいたが、そこから西側は手つかずで、いまだ蛇行をつづける妙正寺川の姿があった。当時、妙正寺川にかかっていた橋の数は、いまとは違ってかなり少ない。順にすべての橋をチェックすると、この風景に合致するポイントをたった1ヶ所見つけることができた。上落合320番地にあった、旧・昭和橋の周辺だ。
 
 この昭和橋は、昭和初期まで旧・下落合3丁目と上落合1丁目とを分ける、ちょうど境界線上の位置に架かっていた。佐伯はそれを知っていて、上落合側に描画のポイントを置いたため、あえて「下落合風景」としなかったのではないか。絵の手前にある空き地は上落合(現在は川筋の変化で中落合1丁目)、川向こうに見えている家々は旧・下落合3丁目1816番地(ややこしいがここも現在は中落合1丁目)あたり・・・ということになる。1936年の写真を見ると、東西の向きにかかる橋の西詰めに、作品に見られるような家々が建ち並んでいる。佐伯はこの橋を東へと渡り、河原つづきの空き地からこの絵を描いているようだ。当時の妙正寺川は、画面の左(南)から右(北)へと流れており、右手の画角外には見晴坂や六天坂が通う、目白崖線がせり上がっているはずだ。
 
 いまは、川の流れと橋の位置が90度も異なるため、場所を正確に特定するのが難しい。「障害者」リハビリセンターのパン工房兼喫茶室がある東側の道路が、旧・妙正寺川の流れがあったところで、そこから神田精養軒のある方向へ旧・昭和橋は架かっていたようだ。ということは、現在の神田精養軒本社の敷地で、佐伯祐三はこの絵を描いたことになる。

■写真上:佐伯祐三「風景」(1926年ごろ)
■写真中上:昭和初期の妙正寺川。現在の氷川橋あたりまで、整流化工事が進んでいる。下落合駅が見えるが、少し前まで下落合駅は氷川明神社の前Click!にあった。
■写真中下:左は1936年(昭和11)の旧・昭和橋、右は1947年(昭和22)の新・昭和橋付近。比較すると、妙正寺川の流れは南北から東西へ、昭和橋は逆に東西から南北へと変わっている。
■写真下:左は、現在の昭和橋。右は、旧・妙正寺川が流れていた道路。手前が神田精養軒の敷地で、旧・昭和橋はこのあたりに架かっていた。左方向へ行くと、「障害者」(この言葉は嫌いだ)リハビリセンターのパン工房があり喫茶室にもなっている。かなり美味しいパンなので、ときどき散歩の寄り道をしている。