目白や椎名町、長崎界隈に戦前からお住まいの方は、みなさん谷端川のなつかしい想い出をお持ちだ。閑静な町中を小川が流れ、春には土手に蓮華が咲きみだれ、夏の夕暮れには赤とんぼやギンヤンマ、ホタルが舞い、秋にはススキが揺れた清流。中には「♪春の小川はさらさら行くよ~」という歌を、ずっと地元の歌だと思っていた人も少なからずいた。実際は、渋谷川上流の代々木あたりを流れていた河骨川の歌なのだが・・・。
 谷端川は、千川上水から分岐した、おもに灌漑用に利用された支流なのだが、南北に大きくS字型に蛇行を繰り返しながら豊嶋郡のゆるやかな谷間を流れ、やがては大塚から小石川を経由して神田川へと合流していた。現在の豊島区あたりを流れていた川筋が谷端川、いまの文京区に入ったあたりの川筋から小石川と呼ばれていた。
 
 椎名町駅が開設されると、武蔵野鉄道線(西武池袋線)はわずか300mほどの間に、谷端川を二度わたることになる。つまり、金剛院や旧・氷川明神女体宮(現・長崎神社)のある、まるで半島のような丘陵を大きく迂回するかたちで、谷端川は北から流れてきて再び北へと去る、大きなU字型を描いて流れていた。U字型の底、最南端は真和中学(旧・第四国民学校)の裏門の前の道にあたる。
 谷端川の想い出を語る方は、表情がゆるみ童心に返ってしまうようだ。子供にとっては、まさに遊び天国のような小川だったらしい。小学校(国民学校)の真裏が、虫や魚がたくさんいる小川だったわけだから、小学生たちは学校が終わると、この川沿いを遊びながら帰れたわけだ。中には遊びに夢中になり、夕暮れまで帰宅しない子供も少なからずいたようで、親が谷端川沿いを探すと必ず見つかった・・・なんてエピソードも残っている。
 
 戦後、周囲に住宅が増えるにつれ、台風がくるとすぐに溢れる谷端川が、住民たちから疎ましく思われるようになる。当時の子供たちは、谷端川が氾濫すると道路で魚や亀が捕まえられたので喜んだらしいが、大人たちは「暗渠化してしまえ」という意見に傾いていった。1948年(昭和23)から、川底の掘削とコンクリートの護岸工事が始まったが、その工事によってよけいに洪水が起きやすくなり、1956年(昭和31)には千早町2丁目から長崎2丁目にかけて、ついに暗渠工事が完成する。

 その後も工事はつづけられ、ついに河川全域が暗渠となってしまった。小石川という地名が残るのに、現在では谷端川(小石川)の流れを見ることはできない。長崎(椎名町)や目白界隈では、もはや川名さえ忘れ去られてしまった。

■写真上:西武池袋線の東側鉄橋があった、西池袋の谷端川跡。現在は遊歩道になっている。
■地図:左は1910年(明治43)の谷端川。U字型の右下が、目白4~5丁目あたり。右は1929年(昭和4)、椎名町駅が開設された直後の谷端川。整流化され、直線的な流れが増えている。
■写真中:谷端川の氾濫。左は西池袋あたり、右は護岸が崩れた大塚あたりか。
■写真下:真和中学(第四国民学校)裏の、目白5丁目から4丁目にかけての谷端川跡。ふつうの道路だが、この下を暗渠となった谷端川が流れている。正面は、池袋のサンシャイン60。

※谷端川の水源である要町の粟島神社。こだまさんコメントをご参照ください。

※谷端川の氾濫:『豊島区80年のあゆみ』(豊島区/1982年)より。