明治の初め、ある男が伊豆の温泉場からの帰途、東海道の宿場町のひとつ大磯で日が暮れて、宿をとった。男は、江戸期からつづく「潮湯治」、つまり海水によって健康を取りもどす治療に最適な海岸を物色中だった。男の名前は松本順(「嵐」の潤ではない)、江戸幕府の奥医師で、明治以降は陸軍軍医総監をつとめていた。
 松本順は、北に山を背負い南に太平洋が拡がる大磯の地形を見て、海水による健康増進に役立つ「潮湯治」、あらため「海水浴」に最適なのではないか・・・と、政府に報告した。江戸初期に小田原の歌人・宗雪が、鴫立庵で中国の洞庭湖にちなんで“湘南”と表現した風光明媚な土地柄も気に入ったのだろう。こうして、日本初の海水浴場が1885年(明治18)、大磯の照ヶ崎に開かれることになる。2年後には、東海道線の横浜~国府津間が開通し、海水や潮風による健康回復・増進にピッタリな「大磯の海水浴場」は、全国的に知られるようになった。当初の「海水浴」とは、海に入って泳ぐことではなく、浜辺に打ち寄せる波に身体をぶつけて、全身の血行をよくするのが目的だった。
 
 そしてもうひとつ、東京に比べて冬は3~5℃も暖かく、夏は逆に3~4℃涼しい大磯は、避暑避寒を同一の土地ですごせるため、東海道線の開通とともに日本初の本格的な別荘町として発展しはじめた。陸軍つながりで、まず山県有朋が別荘を建てたのを皮切りに、徳川各家、西園寺公望、伊藤博文、後藤象二郎、陸奥宗光、酒井忠道、大隈重信、加藤高明、梨本宮守正、寺内正毅、池田成彬、鍋島直大、真田幸正、伊達宗陳、山内豊景など旧大名家や政治家、三井高棟や岩崎弥太郎/弥之助、住友寛一、安田善次郎、古河市兵衛、浅野総一郎、井上準之助など財界人の別荘が、大磯丘陵の南斜面から海岸線にかけて林立することになる。
 これらの別荘建築は、建坪200坪を超す豪華な西洋館から瀟洒な和館まで、多彩なデザインによって建てられている。海軍の火薬工廠があった隣りの平塚とは異なり、大磯はB29による大規模な空襲を受けなかったが、かわりに硫黄島からのP51による攻撃は頻繁に受けている。余談だが、東京大空襲を逃れた人たちが疎開してきて、艦載機の機銃掃射による『ガラスのうさぎ』Click!の悲劇を生んだのは、この大磯~二宮あたりだ。豪華な別荘群は、空襲にも焼けずにその多くは戦後まで残っていた。当時、大磯町にすべての建築物と敷地を買い取れる予算があったなら、明治~大正期にかけての壮大な町ぐるみ建築博物館ができあがっていただろう。あえて、「明治村」はいらなかったはずだ。東京や横浜が空襲で焼かれ、明治期からの貴重な建築物のほとんどが失われたのに対し、大磯にはそのまま、驚くほどの密度で華麗な“作品”が、まとめてところ狭しと並んでいたのだ。
 大磯では、明治~大正初期の建築がフツーであり、昭和初期のモダニズム建築の邸宅や別荘などは、町の保存運動からもあまり重要視されないほどなのだ。
 
 そのほとんどが戦後、移築あるいは解体されるか、「如庵」(国宝)などの茶室は別の場所で保存されることになった。屋敷森を抱えた敷地の多くは、東京・横浜への通勤圏ということで宅地化されてしまったけれど、いまでも明治期に建てられた別荘建築を、ところどころで鑑賞することができる。では、日本で初めての本格的な、そしてケタ外れに豪華だった別荘街Click!を歩いてみよう。

■写真上:旧・岩崎弥之助邸の敷地と隣り合わせの、明治中期に建てられた元・山口勝蔵邸。
■写真中:左は、広大な別荘街が建ち並ぶ国道1号線沿いの松並木。江戸時代の東海道そのままの並木だ。右は旧・伊藤博文邸で、わたしの子供のころから中華レストラン「滄浪閣」となっている。
■写真下:左は、旧・大隈重信邸あたりの石垣。右は、旧・池田成彬邸。このあたりのエリアは、大隈邸、池田邸、陸奥宗光邸ともに現存している。