「山(ヤマ)」というと、古来より平地に対する高地の意味を持つ地名ととらえるのが普通だが、関東平野と濃尾平野に限っていえば例外で、古来より「ヤマ」は高地ばかりでなく、深い「森林」を意味することが指摘されている。「ヤマへ分け入る」という表現は、このふたつの地方では「森に分け入る」という意味でもつかわれている。ちょうど「森(モリ)」の呼称に、「山」の意味も含まれる東北地方とは逆のケースだ。だから、関東地方で「山」の付いた地名をたどると、必ずしも高地である丘や山ではないことに気づく。これが、東京の「山」地名の特定を難しくし、後世になるにつれて混乱を招いている要因のひとつだ。
 やっかいなのは、たとえば本来は濃い森林地帯に対して「○○山」と付けられた地名が、後世(おもに江戸時代)にひとり歩きして、該当する森林ではなく近くの高地へと移動してしまうケースだ。特に江戸期には、田畑の開墾が進み森林が切り拓かれているので、当の森林が消えてしまうとよけいにこの現象が起きている。「山とあるから、登れる場所になくっちゃならねえ」というわけで、「山」の地名は森林から離れた丘上へ移動してたりする。
 目白・下落合付近にあったとみられる「鼠山(不寝見山)」も、非常に場所特定が難しいテーマだ。江戸後期~幕末の絵図(古地図)で確認すると、「鼠山」の位置は現在の目白4~5丁目あたりということになっている。だが、より古い江戸初期の絵図をたどっていくと、「鼠山」の位置が微妙にずれているように見える。この「山」名の由来は、鎌倉時代、奥州攻めの帰途に反撃を怖れて不寝の見張りを置いた源頼朝伝説に起因するとも、太田道灌が豊島氏を攻めたときに、見張り所を置いた「不寝見山」に由来するともいわれている。でも、これらが江戸期の付会ではない・・・とは言い切れない。
 さらに、「鼠山」には栗林が多く、クリネズミが大量に棲息していたからネズミ山と付けられたという説もある。少なくとも、この説は江戸中期の宝暦年間(1750年代)には存在したようだ。1752年(宝暦2)2月21日に、8代将軍・吉宗が「鼠山」で鷹狩りをしているが、その際に安藤但馬守※下屋敷を休憩所にした。この下屋敷のことを、のちに将軍が上がった屋敷、つまり「上屋敷(あがりやしき)」Click!という地名が残ったひそみに倣えば、クリネズミがたくさんいた栗林を「鼠山」と呼んだとしても不思議はない。吉宗の鷹狩りの記録には、実際にクリネズミの鳴き声がやかましかった記述が見えている。
 ※安藤但馬守:享保当時は、のちの安藤対馬守ではなく但馬守を受領していたようだ。安藤
  右京→但馬→対馬の順で、「田島橋」の由来Click!はここから来ているのかもしれない。

 でも、この「鼠山」は将軍の狩り場なわけだから、当然「御留山(御禁止山)」=立入禁止の山だったろう。だとすれば、下落合側に残る「御留山」の地名と、目白側(旧・雑司ヶ谷旭出~長崎)に残る「鼠山」の地名が分かれて残るのはなぜか? 実は、下落合村一帯の目白崖線(バッケ)全体から目白、さらには丸池周辺(池袋)までが、「御留山」と呼ばれていた可能性が高いのではないかと思う。都内の例でいえば、たとえば国分寺崖線(ハケ)沿いの御留山のケースだと、地名としての「御留山」は残っておらず、個々の山(森)名が継承されてきた。ここでは、ハケ全体を御留山ないしは御留場と表現している。このケースに倣えば、いま御留山(おとめ山公園)と呼ばれている丘陵は旧字の「丸山」であり、同じく御留山と呼ばれていたはずの「鼠山」には、その呼称が地名として残らなかった・・・ということになる。つまり、一般名詞「御留山」と、固有名詞「丸山」「鼠山」の違いだ。
 では、なぜ御留山の名称が下落合側のみに限定されたのか? それは、1834年(天保5)に安藤対馬守(こちらはすでに対馬守)下屋敷跡に建立され、わずか7年後の天保の改革時、1841年(天保12)に打ち壊されるように解体されてしまう「鼠山感応寺」と、無関係ではないように思われる。感応寺は、現在の徳川黎明会あたりを中心に、目白3~4丁目および西池袋一帯に拡がる、護国寺や増上寺に劣らない日蓮宗の巨刹だったが、なぜかすぐに廃寺となり徹底的に破壊されてしまう。感応寺と日啓をめぐる大奥の「醜聞事件」については、また改めて書いてみたいテーマだが、千代田城内のスキャンダルなので風聞や噂のみが巷にあふれ、直接の記録が少なく詳細はほとんどわからない。2000年(平成12)に、感応寺の礎石とみられる巨石が目白4丁目から、豊島区教育委員会によって発掘されている。感応寺の建立時、あるいはこの「事件」を契機に、鼠山は将軍の鷹狩り場からは外され、吉宗時代とは異なり「御留山」と呼ばれなくなったのではないか? 同時に、池袋村や長崎村の開墾事業が進み、周囲の森林の入会地化が進捗したとも考えられる。江戸後期、将軍の鷹狩り場(御留場)は、より郊外へと移動していた。
 目白4~5丁目にあったとされる「鼠山」だが、目立った高所がないのに「鼠山」と呼ばれるのは不自然だ・・・とする説がある。七曲坂を登りきって、すぐ左手の屋敷森内にある三角点周辺を、「鼠山」山頂とする説もある。だが、森林を「山」と表現する関東では、「鼠山」が必ずしも丘陵を指さない可能性もあり、いちがいには言えない。後世の地名移動や、ことさら地名の恣意的な固定まで考慮すると、このテーマはやっかいきわまりない。


 初代広重の『名所江戸百景』第116景に、「高田姿見のはし俤の橋砂利場」がある。江戸期の蛇行する神田上水に架けられた「姿見橋」Click!は、現在の「面影橋」と比べると向きがかなり西寄りだった。つまり、絵の視点から見た、正面に見える山が目白崖線だ。氷川明神男体宮の左正面、源氏雲の上へ突き出るように描かれている山が、下落合村の「御留山」(丸山)。そして、やや右手前にある少し小さめの山が、いまの学習院大学の丘であり、ちょうど御留山と学習院との間の谷間を、現在は山手線が走っていることになる。この背後に、広重がこれを描いた幕末には、確実に「鼠山」と呼ばれた一帯があった。


 同じく広重の『富士三十六景』の「雑司ヶや不二見茶や」にも「御留山」は描かれ、『江戸名所図会』の「落合惣図」には薬王院の裏手、ちょうど現在の目白4~5丁目あたりに「鼠山」の記載が見える。だが、これら「鼠山」が描かれた資料は、すべて江戸末期のものであり、すでに「鼠山」の範囲が狭まり、あえて地名の位置設定がなされたあとの可能性がある。
 神田上水(御留川)の側から見れば、「鼠山」は高地にある「山」そのものであり、あえて関東特有の「山」=森の解釈も必要なくなってしまう。それにしても、江戸初期からの絵図で、各時代ごとに微妙に“移動”する「鼠山」Click!は、いくら調べても謎ではあるのだが・・・。

■写真上:目白4丁目にある「目白の森公園」。幕末の絵図で「鼠山」とされるエリアに当たる。
■写真下:将軍休息所となった安藤但馬守下屋敷、つまり鼠山感応寺の境内でもあった敷地の外れ、武蔵野鉄道線(西武池袋線)の旧・上屋敷駅跡の近くにある上屋敷公園。
■地図:1910年(明治43)の「高田落合地形図」。神田上水の蛇行する流れと、やや西を向いた姿見橋(面影橋)の向きが江戸期のままだ。
■図絵:上から、『名所江戸百景』の第116景「高田姿見のはし俤の橋砂利場」(部分)、『富士三十六景』の「雑司ヶや不二見茶や」(部分)、『江戸名所図会』の「落合惣図」(部分)。