以前、さまよえる「不動谷」Click!というタイトルで、大正中期に起こった「不動谷」の不可解な移動について書いた。江戸時代はもちろん、1910年(明治43)の10万分の1「早稲田・新井地形図」(内務省地理局測量課)まで、聖母病院裏から佐伯祐三アトリエの直前までつづく谷間に、「不動谷」という地名が採集されている。でも、わずか8年後の1918年(大正7)の同「早稲田・新井地形図」には、現在の落合第一小学校の南にある谷間に、「不動谷」という地名がふられていた。では、国が作成した地図ではなく、かんじんの地元では当時、双方の谷間はどのように呼ばれていたのだろうか? それが、今回の「不動谷」テーマだ。
 落一小学校の南にある谷は、目白第一文化村(前谷戸)の弁天池の谷戸にあった泉からの小流れがある谷間で、明治から大正初期にかけての地図では、地名が採集されていない。だが、1918年(大正7)には「不動谷」とふられており、これを見た堤康次郎は、開発宅地に「目白文化村」という名称を付ける直前、暫定的に「不動園」と名づけていた。「不動園」はその後、箱根土地本社にあった庭園名へと転化している。
 さて、国の地図とは別に、地元で作られた地誌本が現存している。1916年(大正5)に東京府豊多摩郡役所が編纂した、『東京府豊多摩郡誌』(非売品)だ。『落合町誌』(1932年)に先立つ16年前にも、下落合(当時は村)の詳細を記した本が出版されていた。本書で注目すべき点は、当時の番地まで記した大字小字の詳細な紹介と、郡役所が作成した地元の地図が添付されていることだ。さっそく地図を参照してみると、「不動谷」はピタリと本来の正確な位置に記入されていた。先の落一小学校から北東方向、いまの聖母病院裏から佐伯アトリエあたりにかけて、縦に「不動谷」と記入されている。また、第一文化村の位置に当たる「前谷戸」の地名も、きちんと本来の位置へ記入されていた。
 
 本文のほうはどうだろうか? 大字下落合の説明には、次のような文章が書かれている。「以上各字(あざな)を通じて、地形高低一ならず、殊に丸山、本村、不動谷、小上、大上等は丘岡起伏す、田無往還附近一帯は人家稠密の市街を成し、丸山、本村、東耕地等亦た市街地を成せり、不動谷、伊勢原大原等亦た部落を成すも、他は概ね耕地なり」。そして、この文章の前に、不動谷と呼ばれる小字を「自1,073番/至1,383番」あたりと規定している。
 下落合1073番地というのは、ちょうど現在の聖母坂下、十三間通り(新目白通り)と聖母坂(補助45号線)がまじわる交差点の位置だ。ここから北西へ、細い扇状に広がった一帯が、少なくとも1916年(大正5)当時の下落合では、「不動谷」という小字で呼ばれていた。小字の付き方に沿って、より正確にいえば、聖母病院裏の谷底が「不動谷」という小字なのではなく、その西側の尾根筋の一帯が「不動谷」という小字で呼ばれていた・・・ということになる。でも、自然かつ素直に解釈すれば、この小字はすぐ目の前に口を空けた谷間の、本来の地名に由来しているのは明らかだ。事実、地元では西側のこの谷を「不動谷」、東側の“洗い場”のある谷を「諏訪谷」Click!と呼び慣らわしていた。
 
 さて、これで大正期の地元・下落合における、「不動谷」の認識が間違っていないことが確かめられた。でも、政府内務省地理局が作成した、同時期の地図ではどうだったのか? これが、しっかりと谷間の位置を間違えてくれていたのだ。この時点から、江戸期からつづく地元の“記憶”があやふやになっていく。『東京府豊多摩郡誌』が出版された1916年(大正5)からわずか10年後の1926年(大正15)に作られた、国ではなく地元の「下落合事情明細図」でさえ、不動谷は落合小学校(落一小)の南にある谷間だという錯誤を犯すようになってしまった。
 にわかには考えにくいが「国の言うことは絶対だ」というような風潮が、大正中期からあったとすれば、古くからつづく地名が役人の机上でいともたやすく歪曲されていった事例は、おそらく下落合だけにとどまらないだろう。後世になって、地名の特定がことのほかやっかいなのも、そのせいなのかもしれない。

■写真上:現在の不動谷。聖母病院の病棟が、谷底から見ると丘上にあるのがわかる。
■写真中:『東京府豊多摩郡誌』(豊多摩郡役所/1916年・大正5)の装丁と中扉。
■写真下:左は豊多摩郡役所が作成した地図。「不動谷」の地名が、落合小学校(落一小)や村役場の東側に採集されている。右は、同書に記載された「落合村」大字小字の紹介文。