61年前の3月10日、下町を襲った東京大空襲については、以前「溶けた十銭銅貨」Click!としてサイトにも書いたが、この日、東日本橋のわが家で溶けて灰になったものの中には、おカネばかりでなく、おカネには替えられないとても貴重なものがあった。江戸期から延々とわが家に伝わってきた、浮世絵や刷り本の数々だ。
 中でも、安藤広重※1の『名所江戸百景』は幕末、わが家の家系に熱心なファンがいたのだろう、全119景が揃っていた。ひょっとすると、すべて初刷り※2だったかもしれない。いや、広重ばかりでなく北斎、豊国、歌麿、春信、英泉などもあったという。ことによると、写楽の1枚も混じっていた可能性もある。なんとも惜しいことをしたものだ。親父が後年、浮世絵へ異常に惹かれたのは、この家庭内の素地があったからだろう。
 ※1 最近、歌川広重(初代)と書く方が多いが、江戸東京では昔から安藤広重だ。こう表現すれば、初代の広重であることがすぐにわかってまだるっこしくないからだ。
 ※2 いわゆる初版のこと。絵師が直接、刷り師の工房に立会い、色校正をしながら限定部数を刷った作品。作者の描いたイメージに、もっとも忠実に刷られていてたいへん貴重だ。


 いま、浮世絵の勉強を本格的にしようとすると、日本にいては不可能だ。中国や朝鮮半島のコピーではない、数少ないオリジナルの日本美術である江戸の浮世絵は、3回の大きな不幸にみまわれた。1回目は明治維新。江戸文化の否定とともに、浮世絵の類例のない貴重性がわからず、数多くの作品が欧米へと大量に流出してしまった。しかも、この時期に流出したものには初刷り作品が集中している。もはや日本には存在せず、欧米の美術館でしか目にすることができない貴重な初刷り作品の多くは、この時期に持ち出された。中には焼き物など輸出品の包装紙、まるで新聞紙の代わりに使われた作品も多い。
 2回目の不幸が関東大震災、3回目が東京大空襲だ。震災と戦災により、かろうじて東京の町中に残っていた作品の大半が焼失してしまった。こうして、浮世絵の研究をしようとすると、欧米の美術館をエンエンと行脚しなければならない状況となった。いまさら「返せ」とも言えないから、海外の美術館を巡れない浮世絵ファンは、貴重な作品群を、たまにやってくる海外美術館の出張展示か、画集で楽しむしかないことになる。広重の『名所江戸百景』でいえば、ブルックリン美術館かボストン美術館収蔵のものが世界のデフォルトになるのだろう。
 
 昔日のわが家のように、わたしは『名所江戸百景』の作品を少しでも揃えなおそうとしているのだが、初刷りなどには手がとどくはずもなく、後刷り(2版以降)の安価な、それでもわたしの小遣いを長期間貯めなければ入手できない作品を、神田神保町あたりの出物をにらみながら、コツコツと少しずつ集めてたりする。特に、下落合周辺の情景を描いた作品、目白崖線(バッケ)が描きこまれた作品を、できるだけ優先している。江戸の香がする作品の手ざわりを、オスガキたちに直接確かめてほしいからだ。
 親父たちの世代では、日常のすぐ近くに存在し、いつでも手を触れることができたものが、東京大空襲を境にすべて灰になってしまった。浮世絵ばかりでなく、大震災をかろうじてくぐり抜けてきた、あらゆる江戸の手ざわりが、東京大空襲で消滅していった。

■写真上:数年前、イギリスのオークションサイトで手に入れた、第43景「日本橋江戸ばし」の版元・魚屋栄吉(うおやえいきち)の刻印。遺品処分に絡んだ出品で、おそらくご遺族が価値をよくわかっていなかったのだろう、日本の20分の1以下の価格で入手できた。
■写真中:左上から右下へ、①「角筈熊野十二社俗称十二そう」第50景(東京都庁あたり)、②「四ッ谷内藤新宿」第86景(新宿3丁目あたり)、③「高田の馬場」第115景(甘泉園南側あたり)、④「せき口上水端はせを庵椿やま」第40景(関口芭蕉庵あたり)、⑤「高田姿見のはし俤の橋砂利場」第116景(面影橋あたり)。⑥「玉川堤の花」第42景(新宿御苑あたり)。この中で、③④⑤に目白崖線が描かれ、⑤には下落合の丸山(御留山)の丘が正面に見える。
■写真下:左は、東京大空襲から間もない日本橋。三越が建っているが中は丸焼けだ。右は1992年に建て替えられた、古い言問橋の縁石。言問橋は東京大空襲の際に、浅草側と向島側の両側から避難民が殺到し橋上で衝突、1,000人以上が焼死・圧死あるいは溺死した。