家の古いアルバムをゴソゴソやっていたら、めずらしい写真を見つけた。なぜか東京大空襲Click!で焼けなかった、戦前の貴重な写真類がまとめて出てきたのだ。
 人は住んでいる家や、地元の写真はなかなか意識的に撮らないものだし、撮影するとすれば家族のポートレートがほとんどだ。地元の風景は、いつでも家の外に出ればそこにあって、いつまでも存在しつづけるもの・・・という、なんら根拠のない安心感のようなものがあるのだろうか? わが家でも、家族の肖像は家の前やすずらん通りClick!、あるいは人形町の写真館で撮影されたものが数多く残っているけれど、周囲の風景写真はほとんどない。先日、同じようなことを、目白文化村にお住まいの方にもうかがった。みなさん案外、周囲に拡がる街の風景を撮影されていないのだ。
 この写真は、日本橋両国2丁目、いま風にいえば東日本橋2丁目のわが家の屋上か、あるいはミツワ石鹸本社の3階あたりから、大川(隅田川)の川上を撮影したものだ。正面には大川に架かる総武線鉄橋、右手には人の行きかう大橋(両国橋)が、独特なデザインの街灯とともにとらえられている。物干しの左にチラリと見えている、コンクリートの面白いデザインをした建物は待合茶屋「橋本」で、その向こう側が「木下酒店」だろう。大川の川面は陽に反射し、遠くには川向こうにあった本所公会堂(現・両国公会堂)のドームが見えるが、光の加減から午後早い時間に撮影されたようだ。
 1935年(昭和10)前後に撮られた、わが家周辺の情景。東京大空襲で、すべて灰になってしまうご近所の家々の屋根が、とてもリアルに写っている。そろそろ物干しに干した、シーツを取りこむ時間だろうか。この画角の左側では、「村田キセル」店や小林信彦の実家だった「立花屋和菓子」店など、江戸期からつづく表店も営業しているはずだ。
 
 親父はこのころ、写真の背後にある千代田小学校(現・日本橋中学校)へと通っていた。もともと、千代田小学校は浅草御門(浅草橋)の南詰めにあったものが、明治末には薬研堀跡(元柳橋)へと引っ越してきた。日本橋区の学校なのに、なぜ千代田小学校という校名だったのか、親父の話では明治天皇が参観して以来、そう呼ばれるようになったとのこと。昭和初期に造られたモダンな校舎は、わたしも子供のころ目にしているが、教科書などでもよく見かける日本橋あたりの焼け跡写真Click!には、ポツンと千代田小学校だけが焼け落ちずに残っているのがわかる。関東大震災の教訓は活かされたが、いくら耐火建築でも中は丸焼けだった。
 もう1枚の写真は、熱海にあった別荘のもの。現在なら保存運動でも起きそうな、貴重と思われる近代建築がそこかしこに見えている。いまからは想像もつかないけれど、昭和初期の熱海の貴重なショットだ。金髪のお姉さんたちの「熱海ニキテネ~!」とは、まるで違う世界。熱海は、大正期から昭和初期にかけ、温泉観光地というよりは別荘地としてひらけた。まるで、南欧は地中海あたりの風景を思わせるようなたたずまいだ。東京の下町では、ふだんは江戸期からの道辻そのまま、表店(おもてだな)そのままに、ややせせこましい家々の間で暮らしてはいても、東京を離れれば暮らしを外れた非日常であり、わが家でもちょうど当時の“郊外”に建てられた、目黒雅叙園Click!へ出かけるような感覚だったのかもしれない。これらの建築は、残念ながらほとんど残っていない。

 セピア色に変色した東京の風景は、写真を見つめているとどこかしら懐かしげで、のどかな雰囲気に満ち満ちた別世界のようにも感じるけれど、これらの写真が撮影されたわずか10年後に、東京は、いや日本は壊滅することになる。浮世絵に描かれた美しい遊女たちを観ていると、50%を超えるといわれる梅毒の罹患率をつい忘れがちだ。ちまたにあふれていた、彼女たちの悲惨な生涯の物語もなかなか聞こえては来ない。いとおし気で落ち着いた、セピア色の写真の向こう側には、この国を破滅へと導く「亡国思想」が渦巻いていた。
 これらセピアの彩りは、親父がことさら毛嫌いしていたカーキ色(軍隊色)でもあったわけだ。それを忘れてはイケナイ。

■写真上:日本橋両国から見た、1935年(昭和10)前後の隅田川方面の風景。
■写真中:左は上掲写真の部分拡大。総武線鉄橋の向こうに、本所公会堂のドームがうっすらと見えている。大橋のたもとには、1銭蒸気(ポンポン船)の発着場があった。右は、安田庭園から見た現在の両国公会堂。
■写真下:昭和初期の、熱海に見られた美しい別荘風景。コテージだかフヴィラだかが、相模湾に向いた南斜面にたくさん建っていた。