大正時代に作成された下落合の地図を見ていると、六天坂や見晴坂が通う翠ヶ丘(旧・下落合3丁目)の丘上に、大きな「ギル邸」の記載に気がつく。大正期、大の親日家で日本ヲタクのギルというドイツ人が住んでいた広大な屋敷だ。ちょうど、目白文化村が販売されたのと同時期に、第二文化村の丘上と東西に向き合うようなかたちで、ギル邸は建設されている。
 1966年(昭和41)9月10日の『落合新聞』(第40号)に掲載された記事によれば、ギル邸のギル夫人は和服に合うよう髪を黒く染めあげて、着物姿で下落合を散策していたようだ。第二文化村にも、1棟だけだが外国人が住んでいて、敷地内に入りこんだ子供たちがよく叱られた逸話が伝えられている。当時、翠ヶ丘Click!は文字通り緑ゆたかな丘であり、北西を見やれば目白文化村の美しい西洋風の新しい邸宅が建ち並んだ光景が展開していたはずだ。ギル家では、この風光がことさら気に入って移住してきたようだ。のちに、ギル邸の一部敷地に津軽邸が建設されて、ギル邸にあったバラ園の一部が引き継がれたらしい。
 下落合の花というと、昔からイメージされるのが和風のボタン園(たとえば大正期の西坂・徳川邸の静観園Click!)だが、華族の広大な西洋館だけでなく、一般の洋風住宅も早くから数多く建ち並んでいた関係から、いまにつながる一般住宅の洋風庭園(造園技術)でも、東京における草分け的な実験場だった。現在でも、古い洋風庭園のいくつかを見ることができるが、ギル邸にはおそらく下落合でも最大級のバラ園があったと思われる。
 
 先日、広い下落合(旧・下落合全域)に現存する近代建築の中でも、わたしが昔からもっとも好きなN邸にお邪魔をしてきた。大正期に米国の西海岸から伝わったとみられている、典型的なスパニッシュデザインの邸宅で、ゾクゾクするほど美しいたたずまいだ。ちゃんとお約束どおり、玄関先には棕櫚が植えられている。1924年(大正13)に竣工、ちょうど目白文化村の第二文化村の販売がほぼ終了し、箱根土地が第三文化村を売り出していたころに建てられたお屋敷だ。この邸宅は、あとからほとんど手が加えられておらず、玄関のある前面の壁を少し削られただけで、建築当初の姿をほとんどそのままとどめている。
 お話をうかがっているうちに、お庭に植えられているバラを指されて、「ギル邸から分けていただいたモッコウバラなんです」・・・と、ポツンと言われた。わたしはそのとたん身体がビクンと反応し、またしても耳がマギー審司になってしまった。「ギル邸のバラ!・・・なんですか!?」と、思わず訊き返してしまった。まさか、ギル邸のバラ園に咲き乱れていたモッコウバラに、N邸でめぐり会えるとは思ってもいなかったのだ。改めて、バラをしげしげと見つめてしまった。驚くほどたくさんの蕾をつけていたモッコウバラだが、残念ながら開花まではまだ少し間がある。今度、満開になるころにまたうかがい、花をぜひ写させていただきたいと思った。
 
 いまから80年前の下落合は消え、町の姿は大きく変わったけれど、町の物語は時代時代で区切られ、断絶してしまっているわけではない。そこかしこに、現代へと一直線につづく伝承として、物語は静かに眠っている。
 余談だけれど、やっと初めて市松カレンダーが完成した。(自己満足)

■写真上:大好きなN邸。わたしの学生時代から、まったく変わらないたたずまいのままだ。
■写真中:左が、ギル邸=津軽邸から伝わるモッコウバラ。大量の蕾をつけていたので、さぞ見事な花が咲くのだろう。右は、邸宅の南から眺めた意匠。オレンジのスペイン瓦が美しい。
■写真下:左は、西陽を受けて美しい前面。壁面の左右に見える「I」字のような模様が、壁を少し削った際にあえて浮き上がらせた部分。右は、正面玄関のデザイン。当時の意匠そのままだ。