わたしはうかつにも、何度も“その写真”を目にしているのに、それまでの思い込みが邪魔をして気づかなかった。元近衛邸の車寄せにあったケヤキ、わたしの大好きな怪談話が多く聞かれる界隈なので、通称“呪いの木”Click!などと紹介してしまっている大ケヤキだ。この大ケヤキ、実は1955年(昭和30)ごろまでは双子だったのだ。
 先日、近くのF邸へお邪魔をして、“双子のケヤキ”の写真を改めて見せていただいたとき、思わず「あっ!」と声を挙げてしまった。急いで帰宅して、手持ちの古い写真類を調べてみると、確かに道路の中央から1本ではなく、2本の大ケヤキが生えている。先入観とは怖ろしいもので、近衛町の道の真ん中にあるケヤキは、現状のまま1本だったと思い込んでいたから、古い写真を見て双子のケヤキが東西へ枝を張り出すように2本並んで生えていても、枝ぶりだろうぐらいで見すごしていたのだ。
 たとえば、『新宿区史』(1955年・昭和30)に掲載された、落合台地上の住宅街として紹介されている写真には、確かに道路中央のロータリーから2本のケヤキが並んで生えているのが写っている。なんとまあ、思い込みとはいかに観察眼を曇らせるものなのだろう。では、なぜ双子が1本になってしまったのか?
 F様のお話では、日立目白クラブから向かって左側(西側)の大ケヤキに、ある日突然、雷が落ちたのだ。周辺の住民のみなさんにとっては、米軍機がこの大ケヤキの近くに、250キロ爆弾を落としていったとき以来の衝撃だったろう。下落合に焼夷弾ではなく、250キロ爆弾が落とされた例はめずらしい。山手線をはさんで反対側、高田町や戸塚町には神田川沿いに工場が多かったせいか、焼夷弾ばかりでなく盛んに250キロ爆弾が落とされた。戦後、学習院の斜面に突き刺さった爆弾の破片で遊んだ方々の記憶が、早稲田界隈にはいまでも色濃く残っている。下戸塚では、爆弾が防空壕を直撃し一家全滅の話もうかがった。下落合の大ケヤキ近くへ落ちた250キロ爆弾では、ひとりの住民が亡くなっている。爆弾の跡はクレーター状になって、建物は四散した。
 
 さて、元近衛邸の大ケヤキに落ちた雷を、なんらかの“神威”と受け取られた方がいたのだろうか。落雷が要因かどうかは判然としないが、いまの大ケヤキには注連縄が張られている。ときどき取り替えられるので、いまだ気にしておられる方がいるのだろう。では、雷が落ちた西側のケヤキはどうなったのだろうか。幹が裂けて焦げ、ほどなく枯れてしまったのだろうか?
 現在、道の真ん中で枝葉を拡げる大ケヤキのすぐ横(南西)に、もう1本、同じ大きさのケヤキがある。これこそが、雷の落ちた双子の片割れで、道の中央から道端へと移植されたのではないか・・・というのがF様の推理だ。わたしも、まさにそう思う。道の真ん中に双子の大ケヤキがあると、「また雷が落ちるかもしれない」と考えたか、「他所へ移せとの神意だ」と捉えたものか、あるいは「クルマの通行に邪魔なので、いい機会だから1本移そう」という意見が多かったのか、その後、雷でダメージを受けた双子の片割れは、すぐ近くの道端へとていねいに移植された・・・のだろう。
 焼夷弾をバラまかれようが、爆弾が降ろうが、雷が落ちようが、下落合のシンボル的な双子の大ケヤキは、電線を圧迫して東電泣かせの枝葉を元気に拡げながら、きょうも人々の暮らしを見まもっている。

■写真上:日立目白クラブの側から眺めた、大ケヤキの現状。左の道端にあるのが、雷が落ちた双子の片割れで、もともとロータリーの西隣りに生えていた大ケヤキだろう。
■写真下:左は、1955年(昭和30)ごろの双子ケヤキ。お互い申し合わせたように、枝葉を東西へ分けて繁らせていた様子が写っている。道を舗装中のロードローラーが見えるので、実際の撮影は昭和20年代だろうか。道の中央に、仲よく並んで生えている。右は、1947年(昭和22)の空中写真。