先週、聖母病院のチャペルで中山新宿区長とお会いしたので、刷了前のカラープリンタで出力したイラストマップをお渡ししたら、すでにお送りしたDMと三春堂さんからのお話で、写真展のことはよくご存じだった。「写真展へは絶対うかがいます!」とのことなので、ぜひ旧・下落合(下落合・中落合・中井2丁目)などに残る貴重な近代建築やかけがえのない緑の景観を、改めて写真とマップでご覧いただきたいと思う。
 チャペルで中山区長とお話した中で、以前こちらでもご紹介していた第二文化村の“空き地”のことが話題になった。第二文化村に住んでいた、歯科医師のパイオニア的な存在であり、戦前の数少ない「フェロー」の取得者でもある島峯徹(島峰徹/「空き地を見ると不安になる」Click!参照)の邸宅があった敷地だ。島峯徹は敗戦の年に亡くなっているが、戦後は歯科医ではなく、ここに長く眼科医が開業していた。佐伯祐三が描き落合第一小学校へ寄贈された、『下落合風景』の第二文化村テニスコートClick!の、ちょうど斜向かいにあたる。
 そのご遺族が、日本の歯科医の草分け的な島峯徹を記念するために、新宿区へ土地を丸ごと寄付されたそうなのだ。「新宿区公園予定地」のプレートを見たとき、第二文化村の高価な土地を新宿区は「財源がない、ないよ、ないわ」と言いながらよく購入できたものだ・・・と、少し怪訝に思っていたのだけれど、寄付だからタダなのだ。その経緯は、公園のプレートにも書かれていた。
 
 碑文には、「ここに『目白文化村』の面影を残したいと考え」と書かれている。住民の方なら、どなたも同じお気持ちに違いない。名づけて「延寿東流庭園」。島峯徹は書をたしなんだようだが、「東流」というのはその雅号とのこと。『落合町誌』には、彼の項目にこう書かれている。
  ●
 (前略/明治)三十八年東京帝大医科大学を卒業し、次で大学院に入り内科学を修め更に文部省留学生として独米に於て歯科医学を専攻し、後伯林大学歯科部学術研究室主任として招聘せらる大正三年本邦歯科医学最初の医学博士の学位を獲得す、帰朝後東京帝大講師歯科医師開業試験委員付属病院長内務省中央衛生会臨時委員海軍軍医学校教授を兼ね昭和元年政府首席代表として万国歯科医学界に参列の為め米国へ出張を命せられ同三年東京高等歯科医学校教授に任ぜられ今日に至る。
  ●
 句読点がなく、まあ漢字ばかりでとっても読みにくい文章だけれど、当時の歯科医学の最先端を歩んだ方であることがわかる。不思議なのは、掲載されている住所が第二文化村の下落合1705番地ではなく、「下落合76番地」となっている点だ。この番地は、現在のおとめ山公園の下、十三間通り沿いのエステー化学R&Dセンターを入っていった雑司ヶ谷道に面した一画だが、大学や研究室ばかりでなく、ここで歯医者さんも開業していたのだろうか。
 いつも散歩をしていて思うのだが、現在の中落合側、特に山手通りをはさんで西側に展開する目白文化村(第一・第二文化村)の界隈は、公園や喫茶店がとても少ない。歩き疲れて、ちょっと休息をしたくても、中井駅側へと下りるか下落合側へもどらなければならなかった。この「延寿東流庭園」ができたおかげで、第二文化村へ入れば休憩のめどがつくことになる。街歩きが盛んなこのごろ、東京じゅうから下落合や目白文化村めざして散策にみえる方たちも多い。
 昔日の文化村写真パネルが壁に貼られ、佐伯祐三の描画ポイントマップなんかがお店に置かれたカフェ「文化村」を開業すると、とてもお客さんが入りそうに思うのだけれど・・・。(^^; 中山区長さん、区営で考えてみませんか? 人件費を除いても、第二文化村の「延寿東流庭園」や一ノ坂の「中井東公園」の管理維持費ぐらいは、なんとか捻出できるかもしれません。

■写真上:待ちに待った「目白・下落合歴史的建物のある散歩道」マップの刷り上がりが到着。取材にご協力いただいた邸宅には、すべてお送りする予定。10日の土曜日までには、ご自宅のポストへ配達されると思います。それにしても、なんでわたしはタヌキなのだ?
■写真下:第二文化村にできた「延寿東流庭園」と、庭内にある新宿区の案内プレート(部分)。