東京の街中、たとえば旧・長崎町(現・椎名町界隈)を歩いていると、いきなり牧場に出合うことがある。いえ、ホントに! 豊島区は東京市でも、最大クラスの牧場地帯(牛乳生産地)だったのだ。牧場というと、広大な草原を想像しがちだけれど、東京の牧場はかなり様子が異なる。郊外住宅地のまん中に、忽然と牧場が出現するのだ。それら住宅街に点在する都市近郊型の牧場は、“東京牧場”と呼ばれて親しまれた。まさに、搾りたての牛乳が東京でも飲めた時代だった。“東京牧場”は、大正時代の末をピークに、都市化の波が押し寄せるにつれてしだいに減少していくことになる。
 従来、都心に散在していた牧場が東京近郊へと移転したのは、1900年(明治33)の警視庁による「牛乳営業取締規制」によるとされる。理由は、都心の急速な市街化にともなう建築規制に、牧場の建築物(牛舎)が適合しないから・・・というのが表向きのようだけれど、実際は過密化する都心において少しでも多くの住宅敷地の確保と、衛生面からの郊外強制移転ではなかったろうか。移転先の近郊としては、目黒・渋谷・新宿・池袋・大塚・巣鴨・・・と、鉄道や幹線道路によるターミナルを形成していたエリアが多い。これはもちろん、牛乳や加工された乳製品を、効率よく都心へ運搬する必要があったからだ。
 
 牧場の朝は早い。午前3時ごろには起き出し、牧舎で搾乳作業を終えたあと、日の出前には牛乳を大八車や牛車に載せて加工場へと運ぶ。だから、東京郊外へ住宅が押し寄せてくると、常に牧場の「騒音」や臭気の問題から、まわりの住民たちとの間で軋轢を生むことになる。住宅街のまん中に、ポツンと牧場がある面白い風景が出現したのも、大正末から昭和初期にかけてのころだ。“東京牧場”は、住環境の衛生や騒音などの課題から、あるいは地価高騰のあおりを受け、さらに郊外へ広い土地を求めて、ドーナツ状に拡散していくことになる。
 狭い“東京牧場”では、面白いシステムができあがっていた。もともと敷地が狭隘だから、牛乳の需要が急激に高まっても、ゼルシーやホルスタインなど乳牛の頭数を増やすことができず、市場への供給が追いつかない。また、無理に頭数を増やせば、牛のストレスがたまって乳の出が悪くなる。そこで、頭数を増やしても牧場では飼わず、付近の農家に数頭ずつ預け、分散飼育させる方式が確立していたようだ。周辺農家にしてみれば効率のいい副業となり、牧場側にしてみれば無理なく事業の拡大につながる。“東京牧場”と近郊農家とのアライアンスは、牧場がさらに郊外へと移転を迫られる、昭和初期までつづいたようだ。
 
 旧・長崎町には、3つの“東京牧場”があった。そのひとつ、「安達牧場」(長崎町字大和田2109番地)は、武蔵野鉄道線(現・西武池袋線)の椎名町駅直近の牧場だった。いまでも、「安達牧場」のネーム入り看板を、同所の古い牛乳店で見ることができる。跡地はとうに住宅地と駐車場になり、ここが牧場だった風情はまったく見られない。牛の鳴き声とともに目ざめる、文字通り牧歌的な朝が、東京から消えて久しい。

■写真上:旧・長崎町2109番地(現・南長崎2丁目19~20番地界隈)にあった、“東京牧場”のひとつ「安達牧場」のネーム入り看板。古い牛乳店のようだが、営業しているのだろうか?
■写真中:左は、内ヶ崎光枝『牧場の一隅』(1935年・昭和10)。住宅街にある、“東京牧場”の典型的な姿。右は、「長崎町事情明細図」(1926年・大正15)に見る、武蔵野鉄道沿いの「安達牧場」。
■写真下:左は、現在の「安達牧場」跡。右は、お屋敷街への牛乳配達。大八車に牛乳箱を積んで、配達員が牛乳を各家庭に配っている。門口の牛乳箱には、「東京保証牛乳」と書かれている。(豊島区教育委員会刊『ミルク色の残像』より)