先日、長崎アトリエ村界隈をご案内いただいたとき、道を歩いてて「ここが鶴田吾郎のアトリエです」・・・と、突然紹介された。でも、その場所には、すでにアトリエはなかった。100坪は超えていそうなかなり広い敷地で、一面に夏草が生い茂っている。周囲を見まわしても建築計画の看板はなく、まさに原っぱといっていい風情になっていた。
 大正から昭和初期にかけて、長崎から下落合へ、あるいは下落合から長崎へと、数多くの画家が出たり入ったりしてたけれど、鶴田吾郎は下落合から長崎へ・・・のコースをたどっている。それまでは、下落合645番地あたりに住んでいた。住まいは借家でアトリエが付属していなかったため、鶴田はこの時期、友人たちの画室を借りて作品を描いていたようだ。中村彝のアトリエClick!を借りて、彝との競作となった『盲目のエロシェンコ』Click!を仕上げたのは、よく知られている。鶴田は下落合の借家で、友人の中村彝を亡くし、つづけて長男も病気で亡くしている。これらの不幸が、鶴田を落合から長崎へと転居させるきっかけになったのだろうか?
 旅行好きで、早くから海外にまで頻繁にスケッチ旅行へ出かけているが、その「外地」好きが戦時中の軍部による「戦争画」の作成ニーズと合致したものか、彼の場合は消極的にではなく、積極的に戦地へと出かけ作品づくりClick!へ取り組んでいるようだ。戦後は、おもに山岳をテーマにした作品を数多く残している。
 
 中村彝は、鶴田吾郎のことを今村繁三Click!あての手紙で次のように紹介している。
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 私の友人鶴田吾郎君(洋画家)を御紹介します。同君とは私が洋画を初(ママ)めた当初からの友人で、一所(ママ)に研究所へも行き写生等もした間柄です。その性格が恐ろしく野人的で、豁達不覊なのと、頭が明晰で、的確な社実力を有する点で吾々仲間では夙に認められて居りました。(中略) 驚くべき自由と大胆、遒勁の筆致とを以て大幅のカンバスを無限に描きつぶすだらうと期待された位です。色々な事情の為めに、今まであまり展覧会へは発表して居りませんが、将来は確に有望な画家であると信じて居ります。丁度三年前にシベリヤへ渡って、擾乱と欠乏の中でつぶさに向ふの自然や、生活や民情を深く研究して、最近帰朝したばかりです。  (中村彝『藝術の無限感』より)
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 豊島区の鶴田吾郎アトリエ近くに、都内でも有数の富士塚がある。わたしも、一度見てみたかったのだ。東京にはたくさん残る、江戸後期に盛んになった富士講によって随所に築かれた富士塚だけれど、もっとも造成当初の姿をよくとどめている富士塚のひとつといわれ、国の重要文化財に指定されている「豊島長崎富士塚」(浅間神社)だ。
 
 もともと、戸塚(早稲田)にあった富塚古墳(前方後円墳)の上に築かれた「高田富士」Click!と同様、「長崎富士」も古墳の上に築かれているといわれている。おそらく、その形状からして円墳だろう。よく手入れがなされ、山麓のそこかしこにところ狭しと碑が建立されている。
 酒好きで山好きだった鶴田吾郎は、戦後は気の合う仲間たちの山へ登っては絵を描いていた。ひょっとすると、近所にあった“富士山”にも登っているかもしれない。

■写真上:長崎町にあった鶴田吾郎アトリエは、原っぱになってしまった。
■写真中:左は、下落合645番地の鶴田吾郎宅(借家)跡。右は、下落合にあった鶴田吾郎宅の位置。「下落合事情明細図」(1926年・大正15)には名前が掲載されていないが、前年に作成された南北が逆さまの「下落合及長崎一部案内」(出前地図)には、「鶴」の略字で名前が記載されている。
■写真下:左は、浅間神社の境内に残る長崎富士塚。よく原形をとどめている。右は、キャンバスを背に登山中の晩年近い鶴田吾郎。