その昔、まだ舗装されていない湘南道路(国道134号線)を、祖父や親父に抱かれて散歩していると、ときどき馬車と行きあった。小田原へと抜ける西湘バイパスが影もかたちもないのはもちろん、馬入川(相模川)から西はクルマを見かけるのもまれだった。防砂林として植えられたクロマツもまだ背が低く、三浦半島から伊豆半島まで、はるか遠くを見わたすことができた。昼顔が咲きそろう海辺につづく格好の散歩道を、地元の人たちは「遊歩道路」と名づけ、それが訛って「ユーホー道路」と呼んでいた。この名称は、湘南海岸のまん中あたりではいまでも通じる。
 季節がいつだったかは忘れたけれど、祖父に抱かれて大磯の“こゆるぎの浜”まで遠出をしたときのことだ。下駄の音がカランコロンと鳴っていた記憶もあるので、ときどき浜辺から外れて西行ゆかりの鴫立庵(でんりゅうあん)でも見学しながら、舗装された国道1号線でも歩いたのかもしれない。イチコクでさえ、クルマの往来はあまりなかった時代だ。祖父に抱かれていたわたしは、おそらく3~4歳だったと思う。わたしの母方の祖父は、あまり売れない書家兼画家だったけれど、ゲージュツ家にしては驚くほど体力があった。すべての距離を、わたしを抱いて歩いたわけではないだろうが、いまのわたしでさえ子供を抱いて同じコースを歩いたりしたら、半分ほどでギブアップだろう。
 祖父は、わたしが初孫だったせいか、しじゅう湘南の家へ遊びに来ていた。いや、入りびたりだったと言ったほうが正確かもしれない。一度やってくると、1週間や10日ぐらいは帰らなかった。魚は美味いし白(灰)砂青松、富士山や箱根連山も間近に見えて画材には困らない風光だったせいもあるのだろう。祖父からわたしへのプレゼントは、いつもクレヨンや色鉛筆と、絵に結びつくものばかりだった。祖父の家へ遊びに行くのも、わたしには面白かった。なぜか刀や鑓がゴロゴロしていたし、見たこともない古道具や骨董が、そこかしこに置いてあった。撃墜されたB29の、ジュラルミンでできた筒状の部品を、いつまでも絵筆立てに使っていた。そういえば、中身を抜いて“安全”な「グラマンの機銃弾」をもらったはずだが、どこへやってしまったのか見つからない。
 祖父は早起きすると、いつも浜辺へ地曳きを手伝いに出かけた。活きたサバやムロアジ、マアジ、イワシなどをもらってきては自分でさばき、朝からテラスで葡萄酒(ワインとは言わない)か日本酒で一杯やっていた。遠出をした朝は、魚が美味しくことさらご機嫌だったのかもしれない。潮か砂が顔に当たる、少し風のある日だった。浜辺を歩いていると祖父が急に立ちどまり、めずらしく少し大きな声で「吉田さんだ」と言った。祖父はわたしを抱いたまま、「吉田さん」のほうへ歩いていき、なにやらしばらく世間話でもしたような記憶がある。わたしが、話の肴にされていたような気もするのだが・・・。家にもどってから、娘である母にも「吉田さん」のことを話していたのを憶えている。当時、うちの隣家も同じ「吉田さん」だったので印象に残り、知り合いにでも会ったのだろうぐらいに思っていた。
 
 この「吉田さん」が、吉田茂のことだと気づいたのは、だいぶたってからのことだ。わたしが小学生のとき、吉田茂は大磯の自宅で死去した。授業を受けていると、たくさんの報道ヘリコプターが海岸線を低空で西へ飛んでいったのを憶えている。かなりの騒音で、授業も何度か中断した。元首相が死んだのを知ったのは、帰宅してからだ。母親の、「そういえば、いつかお祖父ちゃんが、海岸で会ったって言ってたわね」という言葉で、ようやく「吉田さん」と吉田茂が結びついたのだ。
 それまで知らないうちに、わたしは何度も吉田邸の前の海岸へ出かけていた。ちょうど吉田邸前の浜は、第四紀の岩盤地層が露出する化石の宝庫なのだ。大磯層とよばれるこの地層は、関東大震災のときに地中からせり上がってきたと言われている。隆起した岩には、海の生物の化石が驚くほどの密度で露出していた。夏休みになると、よく化石採集に通ったものだ。うちのオスガキたちが小さいころ、夏になると大磯ですごしていたが、吉田邸の前浜も重要な遊び場所のひとつだった。サメの歯の化石がないかどうか、目を皿のようにして探したものだ。引退した吉田茂は、午前中に自宅前の小磯海岸へ出ると、血洗川の河口で遮られた西ではなく、浜辺を東へ散歩するのが日課だった。祖父とわたしは、そんな散歩中の吉田茂にたまたま出会ったのだろう。
 でも、そのときの吉田茂の姿を、わたしはまったく憶えていない。おそらく、着流しにステッキをついて、ひょっとすると葉巻でもくわえていたかもしれないが、“こゆるぎの浜”を散歩するこのイメージは、きっとあとから想い描いたものだろう。

■写真上:大磯の“こゆるぎの浜”。正面に見える岩礁も、関東大震災で海面へ浮上したものだ。
■写真下:左は、大磯の自宅でくつろぐ吉田茂。右は、伊藤博文邸(滄浪閣)Click!から海岸の砂丘へと抜けるあたり。いまは、途中で西湘バイパスに遮られて、そのまま直線で渚に出ることができない。祖父に抱かれたわたしは、このあたりで「吉田さん」と出会ったはずなのだが・・・。
余談たが、この伊藤博文邸は一時、パリにいた薩摩治郎八の所有となっていた。佐伯祐三が二度目の渡仏直前、大磯の山王町に一家で滞在したことと併せて、非常に気になるポイントだ。
※その後、大磯にお住まいのSILENTさんより、薩摩治郎八が購入した別荘は「伊藤博文の別荘」ではなく、滄浪閣から北北西へ500mほどの位置にある「伊藤博文の母の別荘」であることをご教示いただいた。