501ページめの記念記事は、やはり久しぶりに「う」の話など。関東では、うなぎに酢を合わせた「鰻酢」というのが、京都のように作られていた記録はない。もっぱら、裂いて串に刺し塩をひとふりした白焼きか、したじ(江戸紫=濃口醤油)ベースの甘辛だれを塗って蒲焼きにしたものが、好んで食されていた。木下謙次郎の『美味求眞』には、京都の“宇治丸”と呼ばれたうなぎが珍重されていた記録がある。「鰻酢、今は余り鰻酢を造らざるも、昔は甚だ流行せるが如し。殊に京都にて一時宇治丸とて、宇治川の鰻酢は珍重せられたることあり」としている。でも、江戸で「鰻酢」が流行ることはついぞなかった。
 味覚に対する東西の大きな違いもあるのだろうが、大田南畝は『奴師労之(やっこだこ)』の中で、うなぎと酢の取り合わせの悪さについて、「鰻驪(まんり)に、酢は毒なりと関東にてはいふ」と書いている。うなぎと酢の食い合わせが、ほんとに身体に毒かどうかは知らないが、蜀山人の口に合わない(まずい)食べ物を別の表現に置きかえているようにも思う。わたしも、うなぎはしたじClick!ベースの甘辛だれで焼くのがいちばん旨いと思うので、おそらく「鰻酢」は口に合わないだろう。
 江戸の河川で採れたうなぎを、蒲焼きにして食べるのは、江戸初期のころから行われていた。うなぎの蒲焼きの初出は、正保年間(1640年代)に書かれた『料理物語』に見えている。もっとも、このころの蒲焼きは身を裂くのではなく、うなぎの頭から尻尾へ竹串を通して丸焼きにしていたようだ。その姿が、蒲の葉に似ていたことから、いつの間にか蒲焼きと呼ばれるようになったらしい。うなぎを裂いて横串に刺し、塩やたれを付けて焼くのは、正徳ごろ(1710年代)からの料理法だといわれている。当時の「う」は、料理屋で出すのではなく、握り寿司や天ぷら、おでんなどと同様に、最初は江戸道辻の屋台見世、つまり露天売りが普通だった。道端でうなぎを焼かれたりしたら、気が散って仕事にならず、つい買いに走ってしまうだろう。いまでも、深川の縁日に出かけると、露天でうなぎを焼いてたりする。もっとも、現在では八ツ目がメインなんだけど・・・。
 いちばん早く見世開きをしたのは、上野の仏店(ほとけだな)にあった「大和屋」というのが定説だ。ケコロという私娼がいた岡場所で、町名はとうに消えてしまったが、現在のちょうど上野駅あたりのエリア。でも、「う」の蒲焼きの本場は、深川の永代寺門前Click!や八幡界隈だったようで、画版に残る「う」の見世は富岡八幡界隈がもっとも多い。
 天明年間(1780年代)になると、本格的なうなぎ料理屋が登場し、現在と同じように座敷のある2階屋の「う」が繁盛していたようだ。また、このころから酒の肴としての蒲焼きではなく、ご飯もいっしょに添えて出す「うなぎめし」も登場した。大川(隅田川)の夕涼み客相手に、蒲焼きを焼いて売る舟も現れて、「う」は老若男女の別なく町人たちに親しまれていく。「う」が別名の江戸前Click!という言葉とともに浸透したのも、ちょうどこのころのこと。少し前、平賀源内が企画したセールスプロモーション「土用の丑日」作戦が、まんまと江戸の街に根づいたのはよく知られている。うなぎ通の間で、「青か白か筋か」Click!(山東京伝『通言総籬』より)なんて言われてたのもこのころだ。
 
 文化年間(1800年代初期)になると、いよいよ今日のかたちに近い「うなぎめし」が登場する。『俗事百工起源』によれば、蒲焼きとご飯を別々に出していた「うなぎめし」が、重箱に盛った飯の上に蒲焼きを載せるようになったのは、出前をするときに蒲焼きが冷めるのを防ぐためだった。いわゆる「うな重」を始めた人物は、日本橋堺町で芝居小屋の金方(出資者)をしていた大久保今助という、おそらく幕府の御家人だ。彼は「う」が大好物で、毎日出前を頼んでいたが、仕事の都合からすぐに食べられるとは限らない。蒲焼きと飯とを別々に配達すると冷めるのが早いため、炊きたての飯を重箱に盛り、その上に焼きたての「う」を載せて持ってくるよう「大野屋」へ註文をつけた。それを受けて「大野屋」では、最初から重箱に飯と蒲焼きとを盛って出すようになり、これが現在の「うな重」となった。ほどなく、熱い飯を丼に盛って蒲焼きを上に載せる、気どらない庶民向けの「うな丼」も登場してくる。うな重の「大野屋」は、東京大空襲にもめげず戦後も日本橋葺屋町で、「元祖うなぎめし」の看板を出して営業をつづけ、親父もずいぶん通っていたようだけれど、いまはどうなったか知らない。
 昔から東京には、「もりかけ十倍うなぎめし」という言葉がある。それだけ、「うなぎめし」は贅沢な食べ物だったわけだけれど、最近はたかが蕎麦の「もりかけ」でもバカにならない値段だ。「う」の松を3,000円とすると、駅の立ち食いでない限り300円で「もりかけ」は食べられない。ぜんたい、蕎麦の値段があまりに高すぎるのだ。妙ちくりんな能書きや見世自慢などうっちゃっといて、安くて旨い蕎麦を食わせる見世はないのだろうか?

■写真上:1835年(天保6)創業の、江戸川橋Click!「はし本」。上品な山手風Click!と、焼きが香ばしい下町風の江戸川沿いらしい中間風味Click!。わたしは近くの「石ばし」よりも、より焼きがよく入った香ばしい「はし本」のほうが好きかもしれない。
■写真下:江戸前(うなぎ)がたくさん採れた、左は広重に倣って2006年版「日本橋江戸ばし」Click!の日本橋川。右は海も近くで、うなぎの巣のような川だった築地川河口。