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旧山手の建築はちょっと面白い。 [気になるエトセトラ]


 江戸期からつづく「旧山手」の町を歩いていると、目白・下落合界隈とはまた違った趣きの建て物に出合う。いわゆる下町から乃手(=山手/やまのてのこと)を見るとき、旧・御城下町Click! (つまり下町/したまち)としての山手の町を表現するときは「旧山手」、明治以降にひらけた山手線の内外に形成された新しい町を「新山手」などと呼んだりする。目白・下落合は、だから明治以降に形成された「新山手」にあたる。
 ところが、それよりも数百年も古い旧山手には、実に味わいのある建物が残っていたりする。たまたま、関東大震災や空襲にも無事だった建築で、旧・華族や旧・士族たちの住宅だ。新山手に残る建物よりも、およそ20~50年ほど古いそれらは、幕末から大正初期にかけて造られている。新山手に建てられたモダンな邸宅の多くは、たとえば目白文化村Click!の建物の多くがそうだったように、いまに直結する日本の住宅の“原型”のようなコンセプトや意匠が採用されている。ところが、旧山手に残る邸宅は、どこかより古く大時代的で、和建築には明らかに江戸の残り香が強く感じられる。また、目を惹く洋館にしても現代住宅には直接つながらない、なんだかおとぎの国に出てくる砂糖菓子のお城のような、ことさらファンタジックな雰囲気さえ漂う。このあたりのデザイン、大磯に散在する大きな西洋館の別荘群についても共通するテーマのようだ。
 
 旧山手と新山手とでは、同じ東京の屋敷街といっても町並みの匂いが明らかに異なる。それは、旧山手が江戸文化の“なつかしさ”と、明治の文明開化による極端な“脱亜欧入化”とが渾然一体となった、江戸風とエキゾチシズムのめくるめくコントラストに魅力があるとすれば、新山手はすでに消化され始めた西洋化をベースに、のびのびとした“ハイカラさ”や、早くもこなれて自家薬籠中のものとされた、日本ならではの「洋風」による“洗練化”や“柔軟性”が強く感じられたりする。同じ東京の乃手といっても、雰囲気や街の風情は大きく異なるのだ。
 わたしは、歩くのであれば江戸の歴史や下町との深い絡みで、旧山手のほうが面白いし楽しいかもしれないけれど、江戸期の支配階級たる武家に圧迫されていた町場の記憶が、どこか知らずに遺伝子レベルで残っているものか、そこで暮らすには少しばかり窮屈さを感じるにちがいない。そういう、目に見えない圧迫感を感じない新山手のほうが、わたしにとってはどうしても住みやすく思えてしまうのだ。旧山手は江戸時代の前期からだが、新山手の形成は大正デモクラシーの興隆と機を一にしているので、よけいに解放感をおぼえるのだろうか。
 
 でも、旧山手には10分ほども見とれてしまう美しい邸宅が、ビルやマンションに囲まれながら、いまでもひっそりと残っている。お話をうかがうと、たいがい危機一髪で空襲の惨禍をなんとかまぬがれ、わずかな島状に焼け残った一画だったりする。武家(士族)屋敷の天井裏から、いまだ黒漆塗りの見事な女駕籠が見つかったりする土地柄なのだ。もうこうなると、明治以降のお嬢様どころではなく、江戸のお姫様の世界へといざなわれてしまう。

■写真上:市ヶ谷に残る見事な西洋館。これが、町のお医者さんてんだから下谷の廣徳寺だ。
■写真中は、明治期の意匠がそのままの、同じく市ヶ谷の武家(士族)屋敷。は、やはり明治が香る護国寺近くにある屋敷。いずれも、旗本の屋敷街あるいは御家人の組屋敷エリアだ。
■写真下は、冒頭の写真のお医者さんで、大正初期の凝った建築デザインだ。は、1991年に建てられたばかりの“明治建築”で、市ヶ谷にある東京理科大学「近代科学資料館」。


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fuRu

こんにちは!
いやはや、このエントリーを見逃していたとは・・・・。
この通りは、現場へ行く道すがらでありまして
何度も通っているのです。
こちらからもTBさせていただきます。
by fuRu (2006-10-25 09:19) 

ChinchikoPapa

このお医者さんの、数軒先のお屋敷へお邪魔したことがあるのですが、まあ、邸宅の中もすごくて・・・。(^^; ちょうど、尾張徳川家の上屋敷に隣接していたあたりで、昔ながらの山手ですね。
ちょうどいま、新宿歴史博物館で「徳川御三家-江戸屋敷発掘物語-」展をやっていますが、この市谷の丘から出土した徳川家のさまざまな品々が展示されています。
by ChinchikoPapa (2006-10-25 10:35) 

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